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耳かき音声の哲学ー聴覚、触覚、「近さ」

 最近、ASMRが流行しているのをご存知でしょうか。
 個人的には、耳かき音声がすごいです。イヤホンをつけて聞くとあたかも耳かきをされているかのように聞こえてくる音声です。

 今回は、耳かき音声について考えます。

 耳かき音声は、当然、音を聞くことです。それでは、聞こえるという感覚はことはどのように起こっているのでしょうか。ここから整理していきます。
 音は空気の振動です。空気の振動が、鼓膜を振動させ、神経を働かせ、脳に入力されるという経路をたどります(とても単純化しています)。

 また、耳かき音声によって、耳を掻かれるという感覚を受けます。触れられるという感覚です。触れられるという感覚はどのように起こっているのでしょうか。
 触れるというのは圧力です。圧力が皮膚の下にある神経を働かせ、脳に入力されるという過程をたどります(とても単純化しています)。

 耳には鼓膜があり、かつ、皮膚があります。そのため、空気の振動と圧力の両方を受け取ることができます。耳は聴覚と触覚の両方を感じることができるのです。

 耳かき音声とは、耳かきする音声です。耳をかたどった部品をつけたマイクに対して、部品を掻くことで、耳の部品を掻く音が録音されます。

 耳かき音声を聞く私たちには、耳の部品を掻く音が再生されます。音は空気の振動です。耳の部品を掻く音は、鼓膜を振動させると同時に(音速で)耳の皮膚に圧力を加えます。そうすると、耳の部品を掻く音が、聴覚と触覚に同時に伝わるのです。

 すなわち、耳かき音声を聞くことは、耳の経験であり、それは聴覚と触覚の経験なのです。耳かき音声について考えるには、聴覚と触覚それぞれを検討して、それぞれの関係性を考える必要がありそうです。

 それでは、まず耳の経験のうち、聴覚について見てみましょう。

 音=空気の振動は、耳介によって集音され外耳道を通り鼓膜を振動させます。空気の振動は音そのものですから、いかなる時においても、音と耳の間には挟まれるものがありません。たとえ、音を鳴らす音源と自分の間に物が置いてあったとしても音は聞こえます。

 これに対して、視覚はどうでしょうか。視覚は、対象物と自分との間に障害物があれば、容易に遮られてしまいます。
 このように聴覚には視覚とは違って「直接性」があるのです。

 そして、聴覚は、直接性によって、音を聞いている人に、音源を想像させます。どういうことでしょうか。
 耳と音源の間には挟まれるものがありませんでした。そのため、音を耳で受け取ると、逆ルートを辿って音を鳴らすものを私たちに想起させるのです。(このような考えは、声を聞くとその声を発する人格を想起させる性質であるロラン・バルト〈声の肌理〉を音の性質にまで拡張したものです。)

 さて、耳かき音声を聞くとき、耳を掻いている人はいません。あくまでも、録音された耳の部品を掻く音は、再生される時であっても耳の部品を掻く音です。もっとも、耳の部品は、リアルに人間の耳をかたどっていることが多いです(たとえば3Dioなど)。耳の形は人によって大きく異なりませんから、自らの耳を掻かれている音声が聞こえると感じるのです。

 次に、耳の経験のうち、触覚については、まずコンディヤックを見てみましょう。

 コンディヤックは、触覚にあって他の感覚にないもの。それは触れること(主体)と触れられる(客体)ことが相互に転換し合うというこの経験の二重性にあり、そこにこそ「魂をして自己の外へと脱出せしめる感覚」としての触覚の本質があると述べます。

 続けて、坂部恵の考えをみてみましょう。

 「(…)ふれる、あるいはさわる以外の五感をあらわすことばは、いずれも対象を示す助詞として「を」(対格)をとる。色を見る、音を聞くというように。このことは、これらの感覚においてはいわば見るものと見られるものといった主ー客の別がはっきりしていることを意味する。これに対して、ふれるという言葉だけが「を」をとらずに「に」(与格)をとる。机をふれるとは言わず、机にふれると言うのだ。このことは、ふれることだけが、ふれるものとふれられるものとの相互嵌入、転移、交叉、ふれ合いといった構造をもっていることを示す。あるいは「分ける」という言葉を考えてみよう。見分ける、聞き分ける、嗅ぎ分けるなどと言うが、決してふれ分けるとは言わない。これはふれるという経験の含む相互嵌入の関係が、分けること以前の経験であることを示すのではないか。つまりそれらは「ふれることのもつ超ロゴス性、超分節性といった性質を示す」

 まとめてみましょう。触覚には「触れるもの」と「触れられるもの」が相互に嵌まり込み合うという経験の二重性があるのです。

 ただし、触覚の二重性は、耳かき音声には直ちには該当しません。先ほど見たように、触覚の経験をもたらすものであるにもかかわらず、です。
 これは、当然のことながら、耳を掻く人はいないからです。すなわち、「触れるもの」と「触れられるもの」が、物理的は分離しているのです。

 物理的には分離しているものの、触覚には二重性があることから生じるのは、「触れるもの」との相互嵌入の関係を「触れられるもの」に対して生じさせることです。
 耳を掻く人はいませんが、耳を掻く人と耳を掻かれる人との関係性だけが与えられるのです。これによって、耳かき音声を聞いた人は、耳を掻く人を、現実的に想像されるのです。

 さいごに、聴覚と触覚の関係性について述べておきたいと思います。
 おそらく両者には、「近さ」において共通するものがあります。音源と聞くものの間に挟まれるものがないという聴覚の直接性、触覚の触れるものと触れられるものの相互嵌入という触覚の二重性はある一定の近さがなければ成立しません。

 耳かき音声の特異な点は、まさにここにあります。物理的にみれば「近さ」はないにもかかわらず、耳に対しては「近さ」を感じさせる。物理的な近さと感覚における近さが分離した上で、近さの感覚が迫っている。

 耳かき音声の「近さ」は、聴覚と触覚、両方の感覚が交わり合う場所に生まれているのです。


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