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イギリス生活78日目(日) 雨のち晴 話してみた、虐待の連鎖をとめる賢さについて

自分が育ってきたのはまぎれもなく親のおかげ。親としてこれから自分が子供の面倒をみていく。親がしてくれたことは覚えてなくても、自分が子供にしようとすることは親もしてくれたであろうこと。

義父義母の滞在費はこっち持ちという以前から苦手であった話は、妻からの親孝行だからという話から、今後日本に戻った後に親の介護をどうするかまでの話。
じゃあ逆に、自分の親が来たら費用もってあげるのかあげないのか。
私なら、自分のお金で来てもらう。そこを当然と思うところが冷たい。
私にも優しさがない。そこを変えたいと思うのかどうか。
すくなくてもその様子をみて、娘はパパ怖いと思っている。
それでいいんですか?

冷たいのは自分が育ってきた環境だから仕方がない。
今の考えだけど、自分の母親は自分を叱ることで愛情表現をしていたように記憶している。
「そのまま連鎖させるのはバカだから。私はむちゃくちゃな生活環境に絶望して半面教師にした」
費用をどこまで。自分らも住ませてもらってるには、納得はいかんが。
自分の親が介護が必要になったらどうすんねん。私は助ける。それに付き合うのも含めて、家族なんちゃう。離婚の文字がうかんで”ヒヤリ”とする。

自分が助かったということは、助けてくれた人がいうということ。
そこを無視しては冷たい。

ではなぜ冷たいのか。
自分がそういう環境に育ってきたから。自分に思いやりとか、損とか得とかでしか人を見てないことが、自分で自分が”ぞっと”した。
それをそのまま冷たく自分の子供に接すると、自分の子供も冷たくなる。
そこを半面教師に出来た妻は賢いといえる。

虐待は連鎖するのは当然だと思っていた。

今朝も自分の不始末で、たぶんいい人だったイタリア人を敵にした。
自分のかまってちゃん。人にみせるため、見られたいためのいい迷惑。
人として幸せに生きるには、人の心・思いやりとかを持たないと、幸せにはなれないんだろうな。それは自分の責任で、自分の気の持ち方、連鎖を変えられるかどうかが人の器なんだろうな。
なあんにもできない自分なんてどうでもいいは、こういう時に使うといいんだろうな。

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