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議事録ーいどばた議論ー

昨夜の議論をまとめつつ次回の議題メモとします。

テーマ:建築が作家の個人言語として捉えられていることについて


・建築家の働き方?

・建築は作家の自己表現媒体ではない?

・ニーチェの宗教批判と善悪の自己判断。

・作家が自己追求の果てに(ニーチェの超人?)個人主義的な方法論を掲げることが現代のニーズだとする?

・上記は、フーコーの誤読?

・フーコーが批判対象とした自己幻想的な近代システムを我々は更新すべき。

・70年代、日本ではイソの「主題の不在」が空回りしてフォルマリズムに陥った。それが80年代、ポストモダンへと短絡した。そうした作家主義から未だ抜け出せない。(あの頃はニヒリズムがかっこよかったのかな。)

・結局、ポストモダン的な考えは、建築をその存在形式によって評価するよりも、試みの斬新さで評価するようになった。まさに現代建築はここにぶち当たる。

・こうした軽佻浮薄な存在となった建築を人々は批評し得ない。残るは作家のブランド。70sフォルマリズムの現代版。歴史の過ちを繰り返すだけ。

・そもそも建築に「古い」「新しい」の概念は存在しない。(過去ー現在ー未来の概念はある)

・可能性があるとすれば西洋のフォルマリズムと日本の民家。前者は共同体としてのパブリックな言語として建築を捉える。例えば「集団的記憶」など。後者は生活と建築が蜜月な関係として空間を形成する。(もちろんクライアントファーストに固執するだけでは突破口になり得ない。)多木の『生きられた家』も示唆に富む?

・香山壽夫 →建築は社会的産物である。(まぁ当たり前)

・再開発は社会的かつ経済的側面から建築を生産しているが、非人間的である。

・ビルディングタイプで考察し直す。

・建築が大きく変わるときはクライアントが変わるとき。西洋と日本では微妙に違ってくる。

以下、持論。
要するに、例えば、エジプトのピラミッド、ギリシャのパルテノン、ローマのパンテオン、奈良の法隆寺、…………等々、あれほど情感溢れる建築に出会ったとき、その情感を誘ったのはその建築であって、建築家ではない。だって設計者の顔なんて思い浮かばないでしょ。空間によって心と体が突き動かされたんでしょ。そういう意味で没個性的な建築を求めてるんですよ。
(ちなみに僕が、好きな建築はあっても、好きな建築家を答えられないのはこのため。)


・『建築家として生きる』を輪読してみる。(すごく正直なところ、この本にあまり期待はしてない笑 期待を裏切ってほしいところ)

・建築家を考察対象とするのであれば、個々の建築家を挙げて議論を展開させてもいいかも。

・.個人的には、いくつかの建築作品を挙げて、議論を展開させたい。


以下、議題にしたくないが一応メモ。
・iPhoneのように数字が更新されていくことに新しさを感じ、そこに価値を置こうとする風潮が建築にも見られる。(iPhone12より13の方が良い的な)

・SNSのスピード感に慣れている現代人は、波乗り上手なサーファーとなっている。要は脳みそ空っぽ状態?(ごめん言い過ぎた。)

・藤本壮介なんかは上記の良い例(ごめん言い過ぎた?)

・そもそもツイートなんてたかが数十秒から数分、長くても数十分考えただけの発言。書籍であれば数ヶ月から数年。言葉の重みが明らかに違う。ちなみに建築は数年から数十年、数百年のものもある。前2つと重さが全く違う。
(Twitterはわりと罪でかいと思ってる)



基本的にはこんな感じだったので、次回、再度議論したいです。いやぁ久々に楽しかった。

ちなみにこれはすごく、建築建築してるので、もっとゆるふわな「建築と〇〇」みたいなのも少しやってみたいかも?

では。

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