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ある男の遺書(2)


前回↓

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あれから3年が経って、季節は真冬。クリスマス・イヴ。三鷹の同じBarで橋爪とばったり会った。僕らはすぐにはお互いに気づかず、話しているうちに記憶が蘇った。「こんな偶然もあるんだな、俺は君に会いたかったよ」と橋爪は再会を喜んでくれた。
その時も橋爪はひとりで飲んでいて、他に客はいなかった。店が繁盛してるのか少し気になったが、続いているところを見るとまぁ大丈夫なのだろう。マスターは相変わらず凛々しい出立ちだった。

僕は、ボウモアのロックを注文した。

僕らは3年前と同様、仕事や恋愛、文学や政経にいたるまでさまざまな話をした。橋爪はかなり早いペースで酒を飲んでいて、酔っている様子だった。そして相変わらず、怪しげな雰囲気をぷんぷん漂わせていた。


「そういえば、今日、太宰の墓参りに行ったんですよ。橋爪さんが以前仰っていたので、僕もあれから太宰を読むようになって、それで」

「ほぉ、そうか。でも今日はクリスマス・イヴなのに、なかなか珍しいことをしたな」

「まぁ、いわゆるクリぼっちってやつですよ。とくにやることもなくて、ひとりで家にいるのもやるせなくなって、思い立ったんです」

「そりゃ大した理由だな。でも墓参りは悪いことではないし、俺はいいと思うよ。それで、どうだった? 太宰のお墓は」

橋爪はグラスに残ったウイスキーをグイッと飲み干して言った。


僕が太宰治の墓参りに行ったのは今回が初めてだった。墓石には「太宰治」と彫られ、その隣には「津島家之墓」と彫られた墓石がたててあった。墓にはピンクの花が一輪供えてあった。周りをザッと見回して花が供えてあったのは太宰の墓だけだった。僕は花には疎く、それがなんの花なのかまではわからなかったが、とても綺麗な花だと思った。おそらく誰かがお墓参りした直後だったのだろう。

墓石の傍に1匹の三毛猫が眠っていた。そいつがむにゃあとひとつあくびをした。僕も真似てむにゃあとあくびをしてみた。その猫を見ていると仕事や恋愛に悩んでいたことなど霧散するようだった。「そんなところで寝ていて寒くないか」などと猫に話しかけてももちろん返事はないので、ただ独り言をぽつりと言った風になった。もしかするとこの猫は太宰治が幾度も転生を重ねた果ての姿なのではないか、などとスピリチュアルな思いに駆られた。そうであってほしいと思った。人間の頃は大変なご苦労をされたであろうから。「太宰さん、猫になって見た現代はいかがですか?」とやはりこれもぽつりと独り言の風になった。ぴゅーっと風が吹いて、塔婆がカタカタと音を立てた。風の冷たさが体の芯までしみた。ピンクの花がひらひらと揺れていた。


「うん、きっとその猫は太宰の生まれ変わりだ。なかなか面白い体験談だなぁ」

橋爪はそう言って、マスターにウイスキーのおかわりを頼んだ。彼はアードベックのストレートを飲んでいた。

「まぁ、生まれ変わり云々はただの妄想ですからね」と言って、僕もボウモアのロックをおかわりした。


橋爪が煙草に火をつけた。銘柄はピース。僕は禁煙していたが、間近で人が吸っているのを見るとどうしても吸いたくなる。そんな気配を悟ったのか、橋爪が煙草を1本差しだしてきた。僕はあくまで遠慮がちに、断ることなど決してしないが、大げさなくらい遠慮がちに、頭を下げながら、すみません、と言って煙草をもらった。禁煙中に喫煙することを誰かに謝っているようだと自分で思った。みっともない惨めな姿だったろう。しかし周りには男前のマスターと、怪しげな男しかいなかったので、とくに気にすることもなかった。久々の煙草に僕は酔った。煙草を吸うと酒の酔いも早くなる。煙草の先でくゆる煙の儚さと、禁煙中の喫煙の儚さが調和をなしている、などと意味不明なことを酩酊気味の頭で朦朧とふけりながら、僕は虚空の一点を見つめていた。


すると、橋爪が突然、思い詰めたような表情で1枚の封筒を渡してきた。「なんですかこれ」と聞くと、橋爪は「遺書だ」と答えた。すぐに「私の友人の」と付け加えた。



→つづく


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