サブカルで学ぶ社会学⑦ 『社会』 ~星野源『恋』及び、『犯罪社会学者・椥辻霖雨の憂鬱』より、「何人集まれば”社会”になる?」~
はじめに(注意書き)
はじめましての方ははじめまして。そうではない方はいつもお世話になっております、吹井賢です。
さて、『サブカルで学ぶ社会学』第七回です。
首のヘルニアの影響でライトノベルはあまり読まなくなったのに学術の入門書はよく読んでおり(なんとマジ)、そもそもアニメに影響を受けて社会学を勉強しようと決意した吹井賢(なんとこれもマジ)が、社会学やその周辺科学、つまり、政治学・哲学・精神医学・文化人類学・生理学・組織科学・社会科学等々に出てくる概念を、サブカルチャーを絡めつつ、分かりやすいが論文で引用すると怒られる程度にはふわっとした感じに、解説していこう、という記事です。
最初にお断りをば。
※あくまでも娯楽として楽しんでください。
※興味を持った概念については、この記事を読むだけではなく、信用に足る文献を読み、講義を受けることをお勧めします。
※そして僕に分かりやすく教えてください。
それでは始めます。
「この世にいる誰も 二人から」
突然ですが。
星野源の楽曲で、一番有名な楽曲は、どれでしょうか?
そうですね!(開口一番)
ドラマの主題歌としても大ヒットした、『恋』ですよね!!
引用した「この世にいる誰も 二人から」は、その『恋』のサビ前の歌詞です。
多分、誰もが、二人の間の恋とか、二人の愛とかのお陰で、生まれてきたって意味なんだと思います。
この歌においては”夫婦”ですよね。
それはそれとして、この歌詞を聞いて、あることを思い出しました。
「……あれ、僕、こんな感じのことを書かなかったっけ?」
『社会』は何人から成立するか
拙著『犯罪社会学者・椥辻霖雨の憂鬱』にて、吹井賢は、主人公の椥辻霖雨に、「『社会』って、何人から成立すると思いますか?」と語らせています。面倒なので引用はしませんが、一巻の二章冒頭ですね。
あ、今からする話、『恋』とか、星野源とか、逃げ恥じとかほぼ関係ないので、ご了承ください。
椥辻霖雨曰く、「『二人から』と『三人から』が有力」だそうです。
これに関しては学術的な出典元があるわけではなく、吹井賢が大学生だった頃、ほぼ同じ内容を社会学の先生が話しており、それに椥辻霖雨っぽい考えを入れて書いただけだったりします。
『サブカルで学ぶ社会学』シリーズではお馴染みである社会学小辞典で”社会”と調べてみても、分かりませんでした。
項目の書き出しが「多義的な概念であって、」であるくらいには色んな意味を含んだ言葉ですからね。
では、『集団』ならどうでしょう?
「社会科学的には”集団”と”群衆”は意味が全く違う」というのは有名な話ですが、”集団”の項目を見てみましょう。
こんな感じです。
というわけで何人からなのかは分からなかったんですけども、「複数行為者のあいだの」という文章があることから、二人以上は確定したと言えそうです。
そして、この『集団(社会集団)』の最も分かりやすい例が、『家族』です。
つまり、私達にとって最も身近な”集団”こそ、家族であり、”集団”をニアリーイコールで”社会”とするならば、”社会”とは「二人から(≒複数行為者によって)構成されるもの」と言え、即ち同時に最も身近な”社会”も、家族なのです。
単語の定義を勉強してみる――「愛が生まれるのは 一人から」
吹井賢が常々思っていることに「定義の重要性」というものがあります。
僕は統計をやる人間だったので、統計を自分にとって都合良く見せる方法というのも多少は分かって、その方法の一つが「定義をいじる」です。
これも、『犯罪社会学者・椥辻霖雨の憂鬱』で少し取り上げましたね。
僕達は普段、言葉を使い、生活しています。
でも、何気なく使っている単語も、話している自分と、受け取った相手では、違うイメージの言葉かもしれません。
「愛が生まれるのは 一人から」
「夫婦を超えていけ」
作詞者である星野源氏が、どういう意味でこの言葉を選んだのか考えてみてもいいかもしれませんね。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
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最後に宣伝!
次回作、第二稿が完成しました。
カクヨムコンにも何か出す予定なので、非商業で良ければ、近いうちに新作をお届けできると思います。