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葬送のカーネーション

映画館に行く習慣はないが、「映画館で何か観たい」と突然思うことがある。
特に観たいジャンルは決まっていないので、どんな映画が上映されているか調べるところから始める。
以前、オダギリジョー監督の『ある船頭の話』を観に行くと決めた時、この映画が上映されていた映画館の一つがシネ・リーブル梅田だった。姫路に住んでいる私は全く知らない映画館だったが、開場を待つ間に置かれている作品チラシをあれこれ見ていると、「この映画館面白そうな作品ばかり!」とテンションが上がった。
そんなことを思い出して、今回はシネ・リーブル梅田で現在上映中の作品から観るものを選ぶことにした。

選んだのは『葬送のカーネーション』。

キャッチコピーは「圧倒的な映像が静かに問いかける、現代トルコ映画の到達点 リアリズムと虚構が交差する、現代社会の新しい寓話」。

舞台は荒涼とした冬景色のトルコ南東部。
亡き妻の遺体を故郷の地に埋葬するために、国境を目指して棺桶を運び続ける老人。そして、両親を亡くした老人の孫娘。
孫娘は仕方なく祖父についていく。

103分の上映時間を終えた後の率直な感想は「いつの間にか始まっていて、いつの間にか終わっていた」。
これは「楽しくて、あっという間」という興奮とは全く異なる。物語の構成を掴めず、心情理解もままならず、目の前の映像をただ受け止めた。

祖父(ムサ)と孫娘(ハリメ)の会話が無いまま場所だけが変わっていく。棺桶を運ぶ祖父と孫娘という奇妙な姿が景色を変えながら進み続ける。また、棺桶を運ぶお手伝いをする第3者との出会いによって初めて会話が生まれる。しかも、その第3者と二人は会話をほとんどしない。第3者たちが口喧嘩をしたり、一方的に心配の声を掛けたりする。他にも、車内ラジオから陽気なショッピング情報が流れるが、車が走る荒涼とした風景との対照性はトルコの一面を描いているのかもしれない。
最後の場面が訪れた時も、二人の会話は変わらず無い。その代わり、ムサの体が意味を物語っているように思えた。「棺桶をなぜ運び続けたのか」という問いの答えを言葉ではなく、体が示し続けていた。

ちなみに劇中には音楽がほとんど流れない。うっすらと音が遠くから聞こえる場面はあるが、音楽とはっきり言えるものは最後に流れるのみ。音楽は心情理解を促す役割を果たすことがあるが、『葬送のカーネーション』は安易な理解を拒むかのように、音楽を場面に添えることが無かった。

音楽にもメロディーが曖昧な作品は数多くある。感情や物語を求める人はそのような作品に対して「聴き所が分からない」という反応になる。ただ、断片の微細な変化、響きそのものをキャッチするというアンテナさえあれば、その作品世界は十分に楽しむことができる。自分の聴感覚が試されている気はするのだが。その試されている感覚が今回の映画体験にもあった。そのため、音楽がないにもかかわらず、音楽的と感じられる映画だった。

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