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恕すをベースに信じることで、穏やかに生きやすくなる

信じることは、同時に恕すこと。

孔子さんが、弟子に、怒りを抑えられないのですが、どうしたら良いでしょうか?と聞かれた時に答えたのが、この恕、という言葉だそうです。

ゆるす、と読み、基本的には許すということと同じですが、
「思いやりの心」を持って罪や過ちなどを許すということです。

怒りと似ているので、パッと見、優しそうな感じに見えなかったりしますね。

恕すということは、
基本的に表面的に正しくないとされるに対しておこなわれることですね。
宗教なんかでも、恕す、赦す、ということはよく使われる事ですね。
宗教の場合であれば、神が赦す、的なこととなることもあるようで、
ゆるす、という行為は、得が高そうな行為のようです。

というのが恕す、ということなんですが、
ゆるせない、となったときには、
基本的になにか信じることと異なる時に発生すると思います。

例えば、不倫、を許さない、
結婚したら、お互い以外の人とあれやこれやはしない、
という信じること、信念があるから。

あの政治家を許さない、
政治家は、主権者の下僕となり、主権者が思っている通りのことをする、
という信念。

信念には正しい間違いはなく、何を信じるか、だけです。

あの国が戦争をするのも、あの国が戦争を回避しないのも、
何かの信念。

真に信じるという行為をおこなうには、
恕すということを持たないと、
自分の信念と同じくする人だけ、信じる、
ということになりますね。

信じないを続けることは許さないを続けることです。
信念を押し付ける行為にもつながるんじゃないかと思います。

信じたい人だけ信じる、から、
恕す、ということをベースにしたすべてを信じる、
ということができるとずっと生きやすく、有意義な時間を過ごせそうだなと感じています。


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