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なんでもない日のなんでもない日記②

地元を離れてから自分を取り巻く色々なものに敏感になったり意識を向けるようになった。"原爆の日"もその一つだ。去年に比べて今年の8月6日は気温も低く蝉の鳴き声も少なかったような気がする。かといって過ごしやすかったかと言われればそんなことはないが。広島を離れてもう3年半が経つが祖父の命日とこの日だけは毎年黙祷を欠かさない。たぶんこれからも。

毎年この日は嫌なことと一緒に少年期を思い出す。今もそうなのかは分からないけど小学生の頃、夏休みにもかかわらずこの日は毎年登校日でみんなで教室に集まって黙祷をし、その後で被曝に関するビデオを見ていた。原爆の恐ろしさについて作文も書いていたと思う。当時はただただ先生や学校にお話をしに来た被爆者の方たちが『戦争はダメだ』とか『原爆は怖い』なんて事を言っていたので、周りの子がどうだったか分からないけど、少なくとも僕はよく分からないまま『戦争は絶対にあってはいけません』なんて言葉を簡単に書いていた。体が大人になるにつれてそういうものの恐さが分かってきたし自分が過ごしている日常が当時からするといかに非現実なものかを痛感する。

今日はバンドでスタジオに入っていて帰り道に最近サポートでドラムを叩いてくれている昇太郎と戦争の話をした。話をしながらふと思ったのだけど、もしも自分の祖父母やその父母が戦争に巻き込まれて亡くなっていたとしたら、僕はこの世に生まれてなくて今日も"スタジオに入って曲を作る"っていういつも通りの事が出来ていなかった。こんなの当たり前で浅はかですごくマヌケな考えだけど、この当たり前に気づけない。もしかしたら今も気づいたフリをしているだけかもしれない。だって僕にとって戦争は非現実の話だから。

僕は神様じゃないから生命の起源も分からないし、自分で望んでこの世に生まれたのどうかも分からないし、なんならこの命に責任を持つことはできない。だけどこの世に生を受けた以上、出来る限り周りの人の言葉やお金なんかに振り回されず自分の意思で自分の好きな事をやって死にたい、綺麗事だけど。今の日本に戦争は無いけど陰湿でドロドロした問題はたくさんある。僕らにできるのはそいつらに少しでも牙を向け、自分らしく過ごしていつかきっと起きるレボリューションの礎となるだけだ。涙を流すことだけが泣くことではないし、命があることが生きているということではない。


なんてことを来年の今日も考えてるのかな。