第10回 治ったらエンディングじゃないのがミソ

認定心理士が作ったcaligura2というゲームがある。
RPGなんだが「記憶を消してもう一回やり直したいゲーム」ぶっちぎりのナンバー1だ。
クリアして2年経ってもヒロインに恋してる。
封印されたもう一人の人格(解離性同一障害)はボーダーまたはソシオパスで表は生徒会長で2丁拳銃使いなんだぜ。
好みど真ん中すぎて。

さまざまな困難をクリアしてもう一人の人格とも和解をして最終奥義っぽいものを習得し戦闘シーンで使用する時のセリフが「力を貸して!もう一人の私!」
だぜ?

もうね、泣くわ。

他の登場人物もそれぞれ何らかの葛藤を持っていて感情移入がハンパないんだけどね。

このゲーム精神だけ異世界に放り込まれてクリアすると現実に帰るんだけど現実の方になんの救いもないの。
むしろ過酷でしかないの。
幼い子供を人質に取った強盗犯を制圧するために拳銃使って誤って犯人死なせちゃった元警官とか。

精神疾患と似てると感じた。

「寛解」とか「治療終結」になってもなーんも得られないの。

ただポンと穏やかな何もない日常が神経ズタボロで時間も経って、俺の場合は会社での立ち位置も失って「穏やか」に戻ったからこそ妻への罪悪感というか後ろめたさやこれから彼女を少しでも幸せにしなければならないという義務感とかそこにずっと取り組んで来たからか妙な「する事がないからっぽ感」とか。

他の人が見たら「フツー」だから褒められる事なんてないし報酬も当然ない。
まだボーダーだった頃のジェットコースター感のほうが生きづらくもあったけど楽しかったというか「自分を生きる」事に全力だった。

ラスボスを倒しても終わりじゃない。
むしろそこからがマジで本番。
やり込み要素抜群過ぎて笑えて来るくらい。

ただ、、一つだけ言える事は、、あんなに生きづらく生きて来たから人生において大体の事がイージーモードというか「強くてニューゲーム」状態なんよ。

「あんときに比べれば大した事ないわ」

なんだろう。
「心の筋肉」みたいなものがついた感じ。
あと、、他人サマの心の傷とそれによる不適応な行為に寛容になれる事かな。

まあでもそんなものといえばそんなものだし、外見も経済的にも社会的にも何か特別な変化があるとかそういう事はない。
いっそ傷病者利得というかボーダーのままで「俺はこういう人間だから」と自分を保護してた方が楽だとすら思う。
なんでこんな事をいきなり話したかと言うと、あなたにとって「治った後のある種過酷な現実」を受け止めるだけの何かはありますか?という問いをしたいから。

自分への言い訳は利かない。
だってもう「治った」から。

認知や生活スタイルにボーダーの気配は山ほど残るけど社会的に生活出来る「寛解」を迎えたからもう前ほどは「誰かのせい」「自分のせい」に出来ない。

俺にはたまたま臨床心理学への知識とメサイアコンプレックスがあったからこうして居るけど、今はそれすらも「自分の傷ではないか」「傷を負ったまま誰かを支援出来るのか」という葛藤に取り組んでいる。
そして多分答えなんかない。
あったとしても俺は多分満足なんて出来ない。

症状や特性を「治す」ことって「治してから直面する特別凸凹してないけど過酷な現実」をどう生きたいかちゃんと意識する事なんだと思う。

他の医療とは違う。
身体的な医療は「受け身」であればある程度は治癒する。

精神疾患は違う。

医者がどうこうとか今やってる療法がどうこう、気に入らない合わない、親のせいだ環境のせいだ、愛着のせいだ、と「受け身」になっているうちは治りは遅い。

まあ、、そんな認知すら歪んでしまうのがパーソナリティ障害なんだけどね。治る「気」すら歪む。
そんなことは解ってるんだ。

でも治療途中ならこの文を読んだ時だけでもいいから考えてみて欲しい。

「あなたが精神疾患によって守られ」なくなったらどうやって生きて行きたいかを。
「フツー」になった自分にとって何が「お守り」になるのかを。

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