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Love or Prison #1 【蟹座の物語】

2019年4月11日、ジュリアン・アサンジが逮捕された。
連行される車中、浴びせられる無数のフラッシュの中で、彼は不敵にも親指を立て、ウインクしたのだった。


1971年7月3日、ジュリアンはオーストラリアのクイーンズランドにある、グレートバリアリーフに面した街、タウンズビルで生まれた。彼が生まれて間もなくして、彼の一家はタウンズビルから沖へ約8kmの場所に位置する珊瑚で出来た島、マグネティック島へと移った。
ジュリアンは、幼少期のほとんどをそこで過ごすことになった。

母親のクリスティーンは画家で、父親は映画産業に従事していた。
2人は、シドニーのベトナム戦争の反戦デモで知り合った。
自由奔放なクリスティーンは、ジュリアンを生んでから程なくして夫の元を去った。

ジュリアンが2歳の時、クリスティーンはミュージシャンで、移動劇場を運営するブレット・アサンジと出会う。
2人はたちまち恋に堕ち、結婚した。
この時にジュリアンは、「アサンジ」の姓を得た。

「アサンジ」という姓は、元々「アーサン」という中国名に由来する。
ブレットの祖先は台湾の海賊で、ニューギニアの木曜島にたどり着いた時、そこで出会った娘と結婚し、その後オーストラリアへと渡った。オーストラリアで、アジア系の2人は酷い人種差別に遭ったため、姓を「アーサン」から欧米風の「アサンジ」に変えたそうである。

アーティスティックなブレットとクリスティーンの夫婦は、いつも水着で過ごし、浜辺で瞑想することを習慣とし、反体制運動に参加するなど、ヒッピーのような生活を送っていた。

マグネティック島の人口は2000人程度で、古くからの慣習が根付く小さなコミュニティの中、先進的なアサンジ一家はとても異質な存在であった。
島民たちの多くは、彼らのことを快く思ってなかったようである。

ある日、彼らの家が火事になった。
それを受けて、20人程の島民たちが集まってきた。
しかし、島民たちは特に何もせず、ただ家が燃えるのをじっと眺めているだけだったという。ジュリアンの記憶によると、薄ら笑いを浮かべている者もいたそうだ。
消防団が到着したのは40分程経ってからで、すでに家は全焼に近かった。
幼いジュリアンはこのことに衝撃を受け、次のように悟った。

「世界は悪意に満ちている。自分たちの気に入らない者の不幸に対しては、手を差し伸べられることはない。消防団のような行政機関すら、意地悪をする。」

この出来事が、その後のジュリアンの人格形成に大きな影響を及ぼしたとされている。


ジュリアンが9歳の時、クリスティーンはブレットと離婚し、オーストラリア本土のリズモアという街に引っ越した。
そして彼女は、「レイフ・メイネル」と名乗る男と付き合うようになる。
レイフは、ギタリストを自称していたが、仕事をしている風でもなく、本名も不明であった。彼の財布には、「レイフ・メイネル」とは別の名義のクレジットカードが数枚入っていたのだ。

レイフは、『ザ・ファミリー』というカルト集団のメンバーだった。
『ザ・ファミリー』は、出生届を偽造して子供達を集めたり、LSDを用いてメンバーに神秘体験をさせるなど、過激なカルト集団だった。

レイフは、次第にクリスティーンやジュリアンに暴力をふるうようになった。
クリスティーンとジュリアンは彼の元を去ることにしたが、『ザ・ファミリー』による執拗な追跡で、どんなに逃げても2人の居場所はすぐにバレてしまった。
そのため、しばらくの間彼らは偽名を使ってオーストラリア中を逃げ回っていた。

ジュリアンは転校ばかりで、まともに学校に行くことができなかったが、図書館へ行って本を読み漁り、次第に教養を身につけていった。

ジュリアンがリズモアに居た頃、彼はコモドール64を手に入れた。初期のホームコンピューターである。
ジュリアンにとって、コンピューターは魔法の道具だった。
適切なスペルを唱えれば、どこへでもアクセスできて、何でも叶えてくれる…。

彼は、次第に既存のソフトウェアを改造することに熱中するようになっていった。
そして、徐々にサイバースペース内で仲間を獲得し、10代半ばでハッカー集団に加わった。

ジュリアンは、世界中の大企業や主要機関へのアクセスに次々と成功し、ハッカー仲間の間でも一目置かれる存在となった。
当時、ジュリアンが侵入した機関には、その後彼が量子力学と数学を学ぶことになるメルボルン大学も含まれている。

彼は、一度、ハッキング容疑で逮捕されたこともあったが、当時コンピューター犯罪における法制度が整ってなかったことから、起訴されずに済んだようだ。

彼は、コンピューターに侵入して、様々な極秘情報を得たが、それを金儲けに使おうという考えはなかった。
はじめは、暗号キーを攻略していくことに楽しみを見出していたが、彼の活動は、次第に社会運動の様相を呈していった。
元々、彼は強い正義感の持ち主だっだのだ。
ただし、彼のやり方には極端なところがあったが…。

彼は、人権保護活動家のシステム開発にも携わるようになった。
児童ポルノの規制に大きく貢献したり、個人情報を企業に売る者をあぶり出し、逮捕に繋げるような仕事もしていた。

また、ジュリアンは18歳の頃、16歳の女性との間に男の子を授かった。
子供は女性が引き取り育てていたが、その後女性と結婚した男が、子供を虐待するようになった。
ジュリアンが虐待の事実を知ると、彼は息子を救おうと、親権を取り戻す為に奔走した。
しかし、一度決定した親権が覆されることはなかった。

公的機関に対して怒りを感じた彼は、意趣返しに、児童保護機関の内部情報を入手したり、ソーシャルワーカーからの内部告発を募ったりして、それらをネット上で暴露していった。
この手法こそが、後の『ウィキリークス』の原型となる。


2006年、35歳になったジュリアンは、内部告発サイト、『ウィキリークス』を立ち上げる。
サイト内では、公的機関、宗教団体、大企業などの様々な内部告発が行われた。

ウィキリークスでは、告発者の匿名性は、あらゆる手法を尽くして守られることを前提とし、ウィキペディアのように、閲覧者が自由にコメントを書き込みできるようになっている。
これによって、閲覧者同士で情報の真偽を分析できるようになっているのだ。


2010年4月、イラク戦争で、民間人がアメリカ兵によって次々と銃撃される映像が、ウィキリークスにより公開された。
この映像は、世界中のマスメディアに取り上げられ、大きな波紋を呼んだ。
ウィキリークスは、これを機に一気に注目を集めることになる。
そして、ジュリアン・アサンジは真実を暴くロックスターとして、広く人々に知られることとなった。

長身に銀髪、野心と狡猾さを含んだ瞳、神経質そうな独特の話し方、波乱に富んだ生い立ち…、彼の全てがカリスマティックだった。
彼は翌年、戦争における悲惨さを訴えるジャーナリストとして、ノーベル平和賞の候補にもなった。


それなのに、2年後の2012年、彼はロンドンのエクアドル大使館の一室に身を潜めることになってしまった。
彼には、スウェーデンに滞在した際、関係を持った2人の女性に対するレイプ(にあたる)容疑がかけられていて、スウェーデンから身柄の引き渡しを要求されていたのだ。
ジュリアンは移送回避のためエクアドル大使館に籠り、亡命を申請していた。
亡命が決定するまでの間、大使館から一歩でも外に出れば、彼の身柄は拘束されることになっていた。

ジュリアンは結局、その後7年間、この大使館から一歩も外に出ることはなかった。
彼の居た部屋に窓はなく、“宇宙船“のようだったという。

孤独を心配した友人から、子猫や運動器具などが送られた。
また、レディ・ガガやパメラ・アンダーソンといったセレブが訪問に訪れることもあった。
彼は大使館内で、猫の世話で面倒を起こしたり、室内でスケートボードをしたり、大便を壁に擦り付けるという奇行に走ったりと、何かと厄介な存在だったようだ。
また、ジュリアンは大使館内でも常にコンピューターを繋ぎ、ウィキリークスの監修を務めていたそうである。


2016年に行われるアメリカ大統領選の期間中、ウィキリークスは、その後大論争を呼ぶ行動に出た。
ヒラリー・クリントンのメールをリークしたのである。

これが、その後の選挙戦に大きな影響を及ぼしたとして、人々のウィキリークスに対する見方は一変していった。
かつてロックスターと崇められていたジュリアンは、もはや国際スパイの容疑者であり、アメリカを破滅に導く危険因子として見られるようになってしまったのだ。

2019年4月、大使館側はついに「我慢の限界」に達したとして、ジュリアンを追い出すことにした。
エクアドルのモレノ大統領は、次のような声明を発表している。

「アサンジ氏の無礼で攻撃的な振る舞い、彼の仲間の組織によるエクアドルに対する敵対的で攻撃的な宣言、そして特に国際条約の違反が、アサンジ氏の亡命を維持できない状況へと導いた。」

大使館の保護の下、“宇宙船“に籠り続けていた彼が、ついに白日の下へと連れ出されることとなった。
長年の不健康な籠城生活によって、彼はすっかり老いぼれていた。
白髪の髭をぼうぼうに生やした姿に、かつての鋭さは感じられず、人々はその変貌ぶりに衝撃を受けた。

それでも彼は、大使館から引きずり出されてきた時、このように叫んでいたのである。

“We can resist! We must resist! You can resist!”
我々は抵抗できる!我々は抵抗しなければならない!君たちは抵抗できる!

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