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狩猟の原点 我、犬に会い、ケモノに会う。 〜 なぜヒトは大物猟を目指すのか?

本稿は『けもの道 2016特別号』(2016年刊)に掲載された記事を note 向けに編集したものです。掲載内容は刊行当時のものとなっております。あらかじめご了承ください。

文|羽田 健志

はじめに

まずは『けもの道』復刊おめでとうございます。

私が狩猟を始めて間もない頃、毎月、狩猟に関する雑誌が家に届くことが楽しみの一つでした。そこには狩猟者の主観たっぷり、思うがままの文章が掲載してあり、ときには無茶苦茶と思われるようなことも書かれていましたが、ゆえにそれがとても面白く、また、勉強になりました。

文章というものは、読む側の受け取り方次第でどのようにでもなるものだと思っています。毒にも薬にもなり、また発する側が毒を発していても薬になることもあります。

ですから、繰り返し読むたびに新たな発見があったりします。当初、理解できなかったことが、自らも経験を経て、その意味や行間に込められた思いが理解できるようになったり、主観たっぷりに書かれているがゆえに、当時は受け入れられなかった筆者の考えが受け入れられるようになったりすることがあるからです。

今でも私は、その雑誌を繰り返し読んでいます。そして、そのたびにまた新たな発見があり、今でも読む楽しみを味わっています。あらゆる筆者の、忌憚のない文章がそこに集まっているからです。

現在は、なかなか言いたいことが言えない世の中です。そして、匿名では言いたい放題の世の中です。些細な言葉の誤りでも、揚げ足を取られ、袋叩きに遭うこともあります。そうやって、当たり障りのない無難な言葉の選択を迫られます。

私も公の場で言葉を発する際は、その趣旨に則り、客観性を考え、慎重に言葉を選ぶこともありますが、この『けもの道』誌が、読者の方々にとって、繰り返し読んでも新しい発見と面白みを享受できる書になることを願い、現時点での私自身の経験と主観に基づく文章をありのままに綴りたいと思います。


我イヌにあう

我が家の本棚に『人イヌにあう』という本がある。この中で著者が冒頭述べているように、人と犬がともに暮らすようになった起源は、お互いが食料を得るための手段である「狩猟」による結びつきが最も大きな要因であるという説が現在有力である。

私の狩猟生活は、拾って来た2頭の犬たちと暮らすことから始まった。

1頭は役場の野犬捕獲用の檻に入り、処分される予定だったジャーマンシェパードの成犬。そしてもう1頭は弟が市街地のパチンコ屋の駐車場で拾って来た雑種(成犬時体重9㎏)の仔犬だった。

幼いころから山や生き物が好きで、独り冒険気分で裏山や周囲の山々に入っていたが、やがて出会った犬たちとともに山に入る日々を重ねていくうちに、猪と出会うようになり、それを追う日々が始まった。

当初は、自分も犬になったつもりで、狼の狩りのようなものを目指していた。

ほどなく、貰って来た一般家庭で生まれた家庭犬の仔犬と、先のジャーマンシェパードと家の近くをうろついていた野良犬との間に出来てしまった仔犬が加わり、追うだけだった猪が止まるようになった。そして、「止めを刺す」ということを考えるようになり、手製の武器を持つようになった。

こうして、犬が猪を止め、私が止めを刺すというスタイルが出来上がった。

時には、猪だけではなく、熊が相手の時もあった。

まだ銃も持たず、「猪犬ししいぬ」と呼ばれる犬たちの存在も知らなかったときのことである。

初代の犬たち(中央が最初に拾った犬)

銃が無くても、犬がいれば猪も熊も獲れると調子に乗っていたが、あるとき痛い目に遭い、それでも頑張って闘い続ける犬の姿を見て、銃を持つ決心をした。やはり人間、絶対に調子に乗ってはいけないということを、大自然とけものに痛感させられた。

銃を所持してからも、常に犬と猪と山のことで頭がいっぱいだった私は、昼は銃を持ち、夜はヘッドランプを装着して槍を持ち、犬とともに猪猟に出た(当時はまだ犬のみによる猟は禁止されていなかった)。時には犬たちと山に泊まることもあった。雪が降り、止んだすぐ後に犬たちと歩いた満月の雪山は、この世のものとは思えない美しさだった。

今では、我が家には「猪犬」と代々呼ばれて来た系統の犬たちがいる。基本的には今も犬たちとの単独猟だが、ともに猟をする大勢の仲間たちも出来た。各地のいろいろな猟場に足を運ぶ機会もいただいた。そして犬や猟を通じて全国のたくさんの方々との交流が生まれた。そして最近では、海外にまでそれが広がりつつある。

それでも私の狩猟の原点は、初代の犬たちとの出会いであり、裏山や身近な山々であり、私にとって狩猟の最大の師は、犬であり、山であり、けものたちであることに変わりはない。

いつか機会があれば、これらの道のりを詳細に書き綴っておきたい。

区別とこだわりとそれがもたらす醍醐味

現在、私は、猟期中の「狩猟」と、年間を通じて行われる「管理捕獲」や「有害捕獲」を行っている。「管理捕獲」や「有害捕獲」については、職務としても行っている。年間を通じて捕獲行為を行っているが、自分自身の中では、猟期中の狩猟とそれ以外の管理捕獲等では、同じけものを捕獲するという行為でも中身はきっちり区別して考えている。

管理捕獲や有害捕獲は、鳥獣による被害があり、必要があって捕獲を行うのであるから、確実に捕獲しなければならない。極端に言えば結果がすべてである(本当は捕獲だけでは被害問題は解決しないのだが)。ゆえに犬と銃での捕獲だけではなく、安全面や効率面等からワナも使用する場合がある。

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