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開拓期の原野でヒグマが民家侵入、3人死傷の悲劇|北海道・弁辺村|明治8年

本記事は書籍『日本クマ事件簿 〜臆病で賢い山の主は、なぜ人を襲ったのか〜』(2022年・三才ブックス刊)の内容をエピソードごとにお読みいただけるように編集したものです。


はじめに

本稿では、明治から令和にいたるまで、クマによって起こされた死亡事故のうち、新聞など当時の文献によって一定の記録が残っている事件を取り上げている。

内容が内容ゆえに、文中には目を背けたくなるような凄惨な描写もある。それらは全て、事実をなるべく、ありのままに伝えるよう努めたためだ。そのことが読者にとって、クマに対する正しい知識を得ることにつながることを期待する。万一、山でクマに遭遇した際にも、冷静に対処するための一助となることを企図している。

本稿で触れる熊害ゆうがい事件は実際に起こったものばかりだが、お亡くなりになった方々に配慮し、文中では実名とは無関係のアルファベット表記とさせて頂いた。御本人、およびご遺族の方々には、謹んでお悔やみを申し上げたい。

事件データ

  • 発生年:1875(明治8)年12月8日

  • 現場:北海道弁辺村(現・豊浦町)

  • 死者数:1人

開拓間もない原野で起きた
一家を襲った突然の悲劇

道央エリア南部、洞爺湖の西に位置する北海道弁辺べんべ村(現・豊浦町)。この村で暮らす一家の小屋にヒグマが侵入し、男性1人を咬殺、女性2人に重傷を負わせた。

1876(明治9)年の「開拓使公文録」の記録(※)によると、「1875(明治8)年12月8日、虻田郡弁辺村の人家に1頭のヒグマが侵入、男性1名死亡、他2名負傷」という死傷事件である。

※北海道立文書館資料5842号「胆振国虻田郡弁辺村ニテ猛熊ヲ砲殺、危急救護ノ者賞与ノ件」

地名の弁辺は、アイヌ語の「ペッペッ(川・川)」に由来する。文字どおり、この一帯は数多の小川や渓流が流れる原野であった。

実際、現在の豊浦町は深い山間部から海岸にかけたエリアに広がり、いくつもの支流を集める貫ぬ気き別べつ川が急斜面を流れた末に海へと注ぐ。

ヒグマはもとより、多くの野生動物が棲息するエリアでもあった。

事件が発生した民家は、この弁辺村に暮らすA宅。詳細な民家の位置はわかっていないが、開拓間もない当時の原野に建つ小屋であったものと思われる。

この家屋にヒグマが突然侵入し、一家を襲った。咬殺された被害者は、同家に一時的に身を寄せていたBだった。同じく同家に身を寄せていたCの母と、Aの長女も傷を負った。

12月8日という期日から、冬眠前のヒグマによるものと推察されるが、ヒグマの行動経路などを含め、詳細な内容はわかっていない。

一方、侵入したヒグマは、岡田伝次郎とアイヌの猟師たちによって銃殺された。開拓使は、この救護に対する賞与として、アイヌの1人に1円75銭、岡田とアイヌ数人の計6人に各1円25銭を与えた。

なお、北海道豊浦町では、2021(令和3)年度も多数のヒグマ目撃情報が寄せられている。

地元自治体では、「野外で行動する場合、山林に入る場合は、鈴やラジオ、爆竹など音を出すものを身につける、できるだけ複数で行動する」などといった注意喚起を促している。

(了)


本エピソードは『日本クマ事件簿』でもお読みいただけます。明治から令和にかけて死傷者を出した熊害ゆうがい事件のうち、記録が残るものほぼ全て、日本を震撼させた28のエピソードを収録しています。

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