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三毛別ヒグマ襲撃事件 〜 史上最悪の6日間|北海道|大正4年

本記事は書籍『日本クマ事件簿 〜臆病で賢い山の主は、なぜ人を襲ったのか〜』(2022年・三才ブックス刊)の内容をエピソードごとにお読みいただけるように編集したものです。


はじめに

本稿では、明治から令和にいたるまで、クマによって起こされた死亡事故のうち、新聞など当時の文献によって一定の記録が残っている事件を取り上げている。

内容が内容ゆえに、文中には目を背けたくなるような凄惨な描写もある。それらは全て、事実をなるべく、ありのままに伝えるよう努めたためだ。そのことが読者にとって、クマに対する正しい知識を得ることに繋がることを期待する。万一、山でクマに遭遇した際にも、冷静に対処するための一助となることを企図している。

本稿で触れる熊害ゆうがい事件は実際に起こったものばかりだが、お亡くなりになった方々に配慮し、文中では実名とは無関係のアルファベット表記とさせて頂いた。御本人、およびご遺族の方々には、謹んでお悔やみを申し上げたい。

事件データ

参考:『慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』(木村盛武/1994[平成6]年)
  • 発生年:1915(大正4)年12月9~14日

  • 現場:北海道苫前村(現・苫前町)

  • 死者数:7人

冬眠前の「金毛」が民家襲撃
人身事故史上最悪の惨事

クマによる人身事故史上最多の犠牲者が出た「三毛別さんけべつヒグマ事件」。北海道苫前村に暮らす2軒の開拓農家が襲われ、胎児1人を含む7人が殺害、そのほか3人が重軽症を負った。悲惨極まる未曾有の惨事である。

三大悲劇の一つとされる本事件は、当時『小樽新聞』や『北海タイムス』で多く報道されていた。その後も1947(昭和22)年に発刊された『熊に斃れた人々 痛ましき開拓の犠牲』(犬飼哲夫/1947[昭和22]年)、事件の生存者などから聴取した内容を記述した『苫前ヒグマ事件』(木村盛武/1980[昭和55]年)、さらに『慟哭の谷 戦慄のドキュメント 苫前三毛別の人食い羆』(木村盛武/1994[平成6]年)、『ヒグマ そこが知りたい 理解と予防のための10章』(木村盛武/2001[平成13]年)など、100年以上昔の事件にも関わらず、長きにわたってこの事件についての書籍がいくつも出版されている。最近では『ヒグマ大全』(門崎允昭/2020[令和2]年)等にも詳細な情報が記されており、話題が尽きることはない。

原野の村にヒグマ侵入
第一の事件が起こる

北海道苫前とままえ村(現・苫前町)は道北の日本海沿岸部に位置し、大正時代中頃まで、市街地と宅地、その周辺の農地を除き、ほぼ全域にヒグマが棲息していた。

事件が発生した三毛別の六線沢ろくせんさわ(現・苫前町三渓)は、苫前村の中でも市街地から遠く外れた山深い場所、海岸線から直線距離で10kmほど離れた山中の一角である。中央部にルペシュペナイ川が貫流し、日本海へと注ぎ込むまでいくつもの支流を集めていく。

三毛別はアイヌ語で「サンケ・ペツ」、「川下へ流し出す川」の意。そんな原野だった当時の三毛別は、野生動物、ことにヒグマにとっては絶好の棲息圏であった。

史上最悪と呼ばれる本事件は、12月9日午前10~11時の間(新聞報道では、午後7時頃)に第一の惨事が発生する。

当日の天候は晴れていたが、70cmの雪が積もっていた。厳しい冬がすでに訪れ、ヒグマはこの時期を前後して冬ごもりを始める。

そんな状況下、三毛別山の西およそ2.5km地点、ルペシュペナイ川右岸に暮らすA(42歳)家に突然の悲劇が襲う。

当時の開拓民の小屋は、ほぼすべてが同様だったようだが、馬小屋のような掘っ建て小屋であったというA宅に、1頭のヒグマが侵入して来た。オスの成獣であった。

母と養子の息子を喰らう
遺体は引きずり出され……

乱入したヒグマは次々と住人を襲った。

被害に遭ったのは、在宅していたAの内縁の妻であるB(34歳)と養子のC(6歳)。この2人がヒグマに襲われ、殺害される。さらにヒグマはBの遺体にかぶりつき、そのまま持ち去って行った。

家主のAはちょうど林道工事の仕事で外出しており、難を逃れた。とはいえ、帰宅後のAには凄惨な現実が待っていた。

養子Cの遺体を発見したうえ、妻Bの姿がないことに愕然とする。だが、この時点で陽はすでに傾きかけており、Aはほとんど何もすることができなかった。

事件発生直後、奇しくも羽幌町はぼろちょうの農家である松永米太郎がA家の前を馬に乗って通過していた。その際、小屋から山の方へ向かって点々と続く血痕を目にしている。

当時はマタギがウサギなどの獲物を引きずって歩くことも珍しいことではなく、「村人が山で獲ったウサギでも引きずって帰って来たのだろう、その血の跡だろう」、松永はそう思ったという。

ところが、現実は違った。その血痕は、ヒグマが引きずって行ったBの遺体によるものだった。

事件発生の翌10日、村の男衆が集まり、Bの捜索を始めた。先に松永が見た血痕を発見し、雪上に残っていたヒグマの足跡と血痕をたどった。午前9時頃、A家から東に150mほど離れた地点、A宅の裏山で巨大なヒグマを発見した。

銃を持っていた何人かが、銃口をヒグマに向け発砲した。ところが弾を発射した銃はわずか一丁だった。手入れの悪さなどが原因だった。

わずか一発の銃弾はヒグマに当たらず、事態はむしろ悪化した。発砲によって男衆たちに気づいたヒグマが、彼ら目がけて突進して来たのである。

ところが、ヒグマは一転、山の方へ向かって立ち去って行った。怖気づいた男衆たちは、一目散に村へと戻った。

すでに午後3時を回り、辺りは薄暗くなり始めていた。とはいえ、この事態を放置するわけにはいかない。そこで再び男衆は現場へと向かった。

先ほどヒグマを発見したトドマツの辺りをよく見ると、血痕で赤く染まっていた。小枝の間にBの遺体が横たわっていた。頭髪をはがされた頭蓋骨と膝下の足だけという、あまりにも無惨な姿だった。それ以外はすべて食い尽くされていた。

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