小説まで読んだトレギアさんガチ恋勢の末路

本日(もう昨日になってしまった)、どうしても映画をもう一度見たくて、1時間に1本しか走らないド田舎のローカル線に1時間以上揺られて、都会の映画館まで行ってきました。
公開日に2回見た後に小説を読んで、そのあとは初めての鑑賞だったので、またいろんなことが見えてくるし、映画に至るまでの彼の気持ちも全てわかるから、完全にシンクロしてしまって、終盤はもう、ウルトラマン頑張れー!とは程遠い、わけわからん…しんど…って気持ちになっていました。

さて。超全集に入っている小説を、読みました。
以下、映画及び小説のネタバレを大いに含みます。

1.光を知りたかった

一瞬、こんなに光を求めていたなんて、って解釈違いを起こしたかと思ったのですが、違いました。
こんなにも光であろうとしたことがあったからこそ、今の彼があるということに、気づいたから。
そんなところまで、自分と全く同じだった。彼は私であり、私は彼なんだ。

タロウと冒険の日々を過ごしていた頃の彼は、村の人を守れ、なんてことを言うような人でした。
さらには、タイガスパーク完成後には、それでも私たちは光の守護者だ、とも明確に言っています。迷いが生じているとはいえ、すごく意外な言葉でした。
でもそれは、まだそのときの彼は、そうするしかないと思っていたから。
それ以外の生き方を、知らなかったから。知る術すらなかったから。

本当は、彼は子供の頃からずっと、光がわからなかった。
子供の頃、咄嗟に自分をかばう嘘をついたり、若き日に自分を助けるために勝手に身体が動いたりするタロウのことが、わからない。
なぜそんなことをする?そんなことができる?全く理解できなかった。違和感ばかりを抱えていた。

”物事の暗い側面ばかり見るのはよくないとタロウは言う。(中略)だが、入ってはならない、見てはならないと言っても、闇は厳然とそこに存在するじゃないか。”
こう言ってくれる彼に救われる。
彼は、嘘を言わない。偽善を言わない。どこまでも真実だけを言ってくれる。あるんですよ、ここに。光を理解できない者がここにいる。

それでも彼は、光であるしかなかった。
闇がそこにあることを無視できない自分、光が理解できない自分…光の国で「異端」である自分に、蓋をして。
友にすがるようにして、光でいるしかなかった。
なぜなら、周りのみんなが、友が、そうしているから。

本当は、違和感や疑問でいっぱいだったでしょう。光とはいったい何のことで、なぜ我々が光の守護者なのか、ずっと引っ掛かり続けていたでしょう。何より、あんな詩まで書いてしまうほどに、そこに厳然と存在する闇に、惹かれてしまっていた。
余談ですが、外に出すつもりのない自作の詩とか読まれたら、発狂して相手を刺し殺します。ええ、間違いなく。そもそも、人には読まれたくないものがある、ということがわからないんでしょうね、タロウには。圧倒的光の陽キャですもんね。

違和感、疑問、そして闇への好奇心。彼はそれらを確かに持ちながらも、誰にも言わずに隠し続けた。だって、誰かに言ったところで、それをわかってくれる人など、あの国にいるはずがないから。
光の国という、文字通り、光をルールとする国にあって、彼は、光に近づこうと努力し続けるしかなかった。全く理解できないけれど、でも、それが世界のルールだから、そうするしかなかったんです。光以外の選択肢は、あの国にはないから。
だからあの詩は、自らが闇に惹かれていることを自覚しつつも、それでも友に、光につなぎとめていてほしいと願っていた。その頃の彼はまだ、光や闇を超越するという選択肢に出会えていなくて、納得できないながらも、この世界の光というルールに従わなければと思っていたから。
例えどんなに理解できなかろうとも、光でいなければならないのだ、という、もはや強迫観念に近いものだったかもしれません。

そしてそのために、宇宙警備隊に入りたいと、あれほどの努力をした。
光を知りたいと、そして、自らを光につなぎとめてくれる友と離れまいと。
もしそこで、自らの身をもって光を知ることができたなら、それでよかったはずなんです。
みんながそれを、イイモノだ、守護するべきものだ、と言っている。何より友が、その光を体現している。
それに近づいて、理解することができたなら。彼はこんな、心身を削るような果てなき探求の道に進まずに済んだでしょう。
ああ、これが光なのか、と、納得することができたなら。そして、お前も光なのだと、お墨付きをもらえたなら。そこで探求を打ち切ることだって、もしかしたらできたかもしれないんです。

努力するしかなかった、彼の気持ちがわかります。自分だって、フツウ以外の選択肢を知る前はそうだったから。
みんなが自明だ、当たり前だ、当然だ、本能だ、って言うことが、自分にはわからない。勝手に身体が動くだとか、それを素晴らしいものだと思うとか、そういう感覚が、一切共有できない。みんなはそれをフツウだというけれど、自分には全く理解できない。
わからないから、書物を読んだり、模倣しようとしてみたりしたんです。アーカイブに通いつめ、宇宙警備隊に入ろうとした彼と、やったことは全く同じです。光に近づこうとして、自分の身をもって経験してみればわかるのではないか?と思って、何度も何度もやってみました。初めは模倣でも、それがうまくいけば、理解にたどりつけるんじゃないかと思って。
でも、ダメでした。わからない側の人間には、永遠にわからないままでした。むしろ、苦い記憶を増やしただけ。入隊を許されなかった彼と同じく、挫折の経験が刻まれるだけだったんです。
ここで、光を知ることができれば。わかった、と納得することができれば。ああ、これがそうなのね、って思うことさえできれば、たぶん、彼も、それでよかったのかもしれないんです。

あと、書物ね!いくら読んでもほんっとうにわからんですよ!むしろ、書物でさえ、光ってイイモノよね~☆みたいなノリのこともよくありますし。光とは何なのか教えてくれるどころか、光をイイモノだと思う「フツウ」を共有してること前提になってて、その前提がわかる人だけ楽しめます!みたいなやつ。
まあ、幸いにして、この現代日本は、彼が映画で言っていたように、光の国よりは「混沌」に近くて、事実、彼の物語のように、私を救ってくれる書物もあるわけですけれど。


トレギア。狂おしい好奇心。
ただそれだけが彼の悲劇。
”明るい親友の存在をもってしても、私の「光と影」へのについての探求心は収まらなかった。”
光の国の他の人たちのように、タロウのように、ただ信じる、ということが、彼にはできなかった。
闇なんて見るなと言われても、そこにあるものを無視することなんて、できなかった。
いや、最初から闇を求めたわけじゃない。闇に惹かれつつも、彼が最初に知りたかったのは、
「友を衝き動かしている、光とは、なんなのか?」ということ。

科学局に入って月日を重ねても、かつての友の行動原理も理解できず、書物も答えを教えてはくれない。
しかし、狂おしい好奇心は、わからないからこそ、かき立てられる。
簡単に分かるものに興味などわかない。
わからないからこそ、その深遠を覗いてみたくなる。
一度も求めたことのないものだったら、こんなに執着しないでしょう。
そう、彼は、どこまでも、「光を知りたい」「友を知りたい」と、ただそれだけを願っていたんですよね。


2.光とは意志のこと

結局、その身で光を知ることはできなかった。
だから、アーカイブで、書物によって迫るしかなくて。
でも、彼は、そうしちゃいけなかったんです。
だって、そうやって知識を得た結果、人間なんてちっぽけな取るに足らない命で、環境を汚し、差別や戦争を繰り返しているという、偽りのない正しい知識を手に入れてしまうから。

光の国の、タロウの考え方もわかるんですよ。
トレギアが問いかける人間の負の側面に対して、タロウは人間の素晴らしさを説く。そしてトレギアは、そんなタロウに距離を感じてしまう。
”タロウ、君はいつも物事の光の側面しか見ないのだね。”
わざと光の側面だけを見て、闇はわざと無視する。確かにこれも、一つの生き方というか、処世術というか、なのはわかるんです。
自分も普段はそうしてます。絶対に折れないぞ、傷つかないぞ、っていう意志のもとに、例えば占いのいいことだけ信じるとか、人に言われた言葉も、傷つくようなものは意図的に忘れ、嬉しかったことだけを日記に書くとか。極論、事実の解釈を捻じ曲げてでも、病まずに強く生きるぞ、って決めてます。
光しか見ないっていうのは、生きていくための一つの意志なんですよね。

前に書いた映画の感想で、光とは理屈なんてないポジティブな逆ギレみたいなもの、って書きましたけど、この小説を読んで、余計にそう思いました。
映画で、霧崎に対してヒロユキが返す言葉。「それでも希望を、光を信じたいんだ!」もう清々しいくらいに、理屈なんて知るか、これは意志だ!って叫んでいる。
そう、光とは、それを信じる意志のことであって。理屈や書物では迫ることのできないものだったんですね。
でも彼にはそれしか方法がない。だから彼は、永遠に、光を理解することができない。

光とは、強い意志で信じるものであって、理屈で考えちゃいけないものなんだ、って、映画まで見て、自分はそう理解しました。
確かにそれも一理あるし、わかるんですけれど。
でもそれは、ポジティブな思考停止であって。暗い現実に目を背けることであって、自分をポジティブに騙し続け、嘘をつき続けることで。
頭がよく、何よりも「狂おしい好奇心」を持つ彼には、それはできなかった。
闇がそこにあるという、本当のことを、彼はわかっている。そこから目をそらさないでいてくれる。


3.光の国の欺瞞

タロウは、いい側面しか見ないから、あきらめなければ警備隊に入れるさとか軽々しく言うし、審査に落ちても、技術局があるじゃないかみたいなことを言う。人間や絆についても、根拠のない自信と信頼で、きっと大丈夫さ、だなんて。
わかるんですよ。実際、生きるためには、そのポジティブさが必要だし、自分もそういうふうに思うようにしてる時もある。
でも、それは、ポジティブではあるけど、嘘、欺瞞、じゃないですか。警備隊には入れなかったし、人間なんてそんな綺麗じゃないし、絆だって作中でも現実でもなんぼでも悪用されてる。そういう真実から目をそらして、はっきりと嘘をついているわけですから。

そして、その嘘や欺瞞は、そこに厳然と存在するはずの闇への無視、という形をとる。
闇なんて存在しないことにして、平和な光の世界を保とうとする。
ベリアルの存在を無視してあくまで光だけを貫く光の国も、フツウが支配するこの現代日本も同じ。都合の悪いもの、世界のルールに当てはまらないものは存在しないことにして、ルールに入れる人たちだけの、内輪の平和を謳歌している。
冗談じゃない。いないことにされてたまるか。彼は、私は、ここにいる。

彼が光の国に攻め入ろうとした気持ちも、わかりますよ。何も恨めしいから滅ぼそう、ってんじゃない。ここがベリアルとの大きな違いですね。
彼はただ、欺瞞で塗り固めた光の国に、自分の存在を主張したかったんじゃないかと思います。
闇はそこにある。そして、闇に惹かれた果てに、光も闇も捨てた自分が、確かにここにいる。見ろ、光を信じて疑わない者たち。お前たちの反例がここにいるぞ…と。そして同時にこれは、私が書き続ける理由でもありますね。見ろ、ここに、お前たちが無視しているものがいるぞ、と。


先ほど、かつての彼には光しか選択肢がなかったから、自らも光になろうとした、と書きました。
でも彼は触れてしまった。気づいてしまった。ベリアルやヒカリのことを。光を捨てたウルトラマンのことを。
そうなってしまったらもう、彼を光に留めておけるわけがない。ただでさえ、タロウが遠い存在となってしまっていて、彼を光につなぎとめるものがもう何もないときに、彼は、光の国の欺瞞を暴いてしまった。光の国に生まれたら、永遠に光を求め続けなければならない、というルールは、破ることができるのだと、知ってしまったんです。

ほんとに、ベリアルのことをもっとよく知るべきだと思いますよ、光の国の人々。この書きぶりからするに、ベリアルの乱のことは誰でも知っているけど、どうしてそうなったのか、ベリアルが何を考えていたのかは、トレギアのように深く調べようとしなければわからない、広くは知られていないことのようです。
さらには、ベリアルが光の国出身であることを隠している、というようにも読めて、もう、なんたる欺瞞の国か。都合の悪いことはなかったことにしているわけですよね。これは我が国から出たものではないと、そういうことですよね。
今、8月の終わりですが、6日、9日、15日などの話題を振り返って、不勉強な私でも、なんかいろいろちゃんと教えられて来なかったっぽい、もっと自分で知らねば、と毎年のように焦っていますけれど。光の国の人たちの中に、こういう危機感を持っている人が、どれだけいるでしょうか?
歴史を、過去の過ちを、きちんと学ばなければ。都合の悪い歴史を覆い隠していてはいけない。加害も、失敗も、きちんと知らなければ。
ベリアルやトレギアを、あいつらは闇に魅入られてしまっただけ、って例外扱いして、俺たちはそうならないぞ!って言うだけじゃ、第3第4の闇のウルトラマンが出ますよ。ちゃんと学んでほしい。闇を無視するほどの圧倒的な光が、ときに凶器にもなることを。闇をただ拒絶するだけでは、何も進まないことを。


光を知ろうとする彼は、そのために闇を知ろうとするわけですが、そう、本来、それでこそ光を知れるというものですよね。
光が眩しいのは、周りに闇があるから。
光が光だと知覚されるのは、闇があるから。光は光そのものではそれとわからない。
また彼は私が欲しい言葉をくれる。どこまで私を篭絡してくるんだろう。
これ、「ヘテロ」「シス」という単語の誕生経緯のことを思いました。
LGBがあって初めて、「ヘテロ」という名前がつく。
トランスがあって初めて、「シス」という用語ができる。
※LGBやトランスを闇だと言ってるように聞こえるかもしれませんが、闇だから許されないもの、ではなく、それで何が悪い!実際そこにあるだろ!っていう文脈です。ご承知おきください。
闇があって初めて、光は光と知覚されるわけですよ。セクシュアリティも同じ。シスでヘテロ、それ以外の選択肢なんかない、自明のことでしょ?って思われているうちは、シスやヘテロという名前すらつかないんです。わかりやすい例でいうと、ゴルフの全英オープンが英語ではthe openなのと似てますね。それ以外ないんだから、わざわざ差別化するような名前つけることないでしょ?っていう。

だから彼のことに話を戻すと、闇を知ってこそ光を知ることができる、っていうのは、ものすごく真っ当で誠実な態度だなあ、ってことです。
むしろ、闇をただ否定するばかりで、光光!って言ってる人たちの方が心配になる。それ、自分が言うてるその光ってことの中身を、ちゃんとわかってますか?って。
あー、また別な例を。朝ドラ「ごちそうさん」(話題の東出さんと杏ちゃんが夫婦役だったやつです…)で、夫婦の娘のふくちゃん(オーブのナオミちゃんが演じてます!)の幼少時代のエピソード。杏ちゃんの役は料理の上手なお母さんなのですが、ふくちゃんは、ごはんがおいしい、ということがわからなかった。でもある日、珍しく外食だか買い食いだかをして、そのあと初めて、お母さんの料理っておいしいんだ、って気づきます。ふくちゃんいわく、「これがおいしいってことやったら、うち、ずっとおいしかった」と。
つまり、比較対象がないと、ものを見定めること、ものの本質をよく知ることはできないわけですよ。
だから、彼が闇を極めようとしたのは、本当に理にかなっていて、むしろ他のみんな、それをやってなくて大丈夫?って話になるわけです。


4.同じ景色を見てほしい

さて、映画鑑賞3回目(小説読了後初)の今日は、あまりに彼にシンクロしすぎて、グリムドを取り込んだタロウがタイガを攻撃してるのを観てるとき、彼と一緒に笑ってました。
やっと、同じ景色を見てくれたね?って。
だってそうでもしないと、こっちの見ている世界は、見てくれないじゃないですか。
燃えろ燃えろ、は、親子の絆も燃えてしまえ、ってこと。最高のショーじゃないですか。

わけわからんですよ、いつ誰が決めたかわかんないようなルールで、それを問い直すこともなく、みんなのほほんと生きてるように見えてんですよ。
それは透明なくせに恐ろしく強固な膜で、こちら側とあちら側の景色を隔てていて。
だからこれぐらい強引な手を使わないと、きっと同じ景色は見させられないんですよね。

強がりを言うタイガにヒロユキが、きついときはきついって言えよ、僕には本当の気持ちを話してくれよ、とか言うシーンあるじゃないですか。これ、めちゃくちゃタロウっぽいな、と思って。序盤にタロウがトレギアに、光の国に帰ろうとか言うシーンありますけど、きっとその前にもトレギアを探して、ヒロユキがタイガに言ったのと同じような言葉をかけたことがありそう、って勝手に思ったんですけれど。
じゃあ、話したら、わかってくれるの?って話で。
グリムドを取り込ませるくらいしないと埋められない、この、深い深い断絶を。
話して拒絶されるくらいなら、話さない。
だって、わかりあえないことがわかりきってるじゃないですか。小説で、人間の本質を問うた彼の言葉を、タロウは無視したんですよ。
話してもわかってくれないのがわかりきってるのに、なんでわざわざ、拒絶される苦しみを味わうために話さなきゃならないの? ってこれ完全に、自分がそう言われたとしたら、って考えちゃってますけど。

いや、聞くから話してくれ、って言う人もいるでしょうけど。互いに理解しあって生きて行こう!みたいな人、いますよね。
もちろん、それも大事なのはわかるんですよ。数が少なかったり力がなかったりする属性から、こういうことで困ってるんですって声を上げて、社会のしくみを住みやすく変えていくとか、そういうことは大事です。マイノリティだからこそ、同じ権利をくれって声を上げていかなきゃならない。それはわかるんです。
でもね。そうやって権利を勝ち取ったところで、マイノリティ、少数派、という事実は変わらないんですよ。それが何を意味するかっていうと、同じ景色を見てくれる人はなかなか見つからない、ってこと。
話して伝わるのは、あくまで理解であって、共感じゃない。別に理解が無意味だと言ってるわけではありません。むしろ世の中のほとんどのことは、共感ではない理解しかできなくて、だからなるべく誠実に理解しなくちゃならない。それはわかってるんです。
でも、それはわかった上で、それでも、心から同じ景色を見てくれる友を、求めちゃいけませんか。
って書くと、じゃあ似たような人が集まるコミュニティーにでも行けば、って言われるでしょう。
違うんです、そういう問題じゃないんです。新たに出会う他の誰か、じゃなくて、友に、わかってほしい。同じ景色を見てることを条件に人を探すんじゃなくて、ずっとそばにいた人に、同じ景色を見てほしかった。
そう、これがまさに、トレギアがタロウに対して思っていたこと。高望みでしょうか。

彼はただ、タロウと同じ景色を見て、同じ道を生きてみたかったんです。
でも、自らがタロウの道を行くことはできなかった。
だったらもう、どんな手を使ってでも、タロウをこっち側に引っ張ってくるしかないじゃないですか。
それを実行に移せた彼がかっこいい、羨ましいと思います。

ちょっと話がそれますが、たぶん、ジャグラスジャグラーも、いろいろあって今は、ガイと同じ景色が見たい、って思ってるような気がしています。
でもその中身は、トレギアとは全然違う。
トレギアとジャグジャグの最大の違いは、光の国に生まれた、ということ。トレギアが光の国で味わったような思いを、ジャグジャグは経験していない。誰にも言えない違和感を抱えながら、光を是とする国に生き、そしてついにその違和感が爆発してそこを飛び出したような、そんな孤独から狂乱に至る長い長い時は、トレギアだけの経験。
だから、自分側に友を引きずるしかなかったトレギアとは違って、ジャグジャグは、自らも光を得ることで、ガイの隣に行こうとしている。ジャグジャグは、まだ全然、光を諦めてないんです。だから、正義に目覚めたと言われても信じますし、なんならジードの映画のときからあなたはそうでしょうよ、って感じ。
ジャグジャグが憎んでいるのは、ただ、自分を選ばなかったあの光と、それを得たガイであって。国を挙げて信奉されている光、ではないんです。そしてそれと同時に、ガイが持つ光こそが、ジャグジャグ自身いまだに最も欲するものであって。だからガイへの感情が愛憎入り混じってしまって執着になる。
そう考えると、トレギアからタロウへの感情って、歪んだ友愛はあれど、憎しみって、ないんですよね。光の国に帰ろうとか言ってくるのは確かにうざいなって思ってるでしょうけど、でも、別にタロウを憎んではいない。ただ、眩しすぎる友と、肩を並べてみたかっただけなんですね…。


5.狂おしい好奇心

”「けっして入ってはいけない」ということは、「入れ」ということだ。それが彼のルールになっていた。”
”無意識の海は「深淵」の奥に封じ込められている。正気を保つために。”
ずっとあなたはそう。その狂おしい好奇心を止められずに。
光とは理屈ではなく意志なのに。論理だった説明はできなくとも、ただ信じ、守護するもの、それが光。だからまともに考えてはいけないのに。人々は正気を保つために、そこに厳然と存在する闇を、深淵を、見ないようにしているというのに。
あなたは、その扉を開いてしまった。

そして、長い長い時を経てたどりついた、虚無。
“ウルトラマン達のいう光と絆を否定できるならなんでもよかった。”
この姿が、私たちがR/B映画や、テレビシリーズで見てきた彼の姿なんですね。というか、ルーゴサイトの話は聞いていましたけど、オーブにもXにも絡んでいるとは…。

そして映画は、彼の総仕上げ。圧倒的な光であるタロウを闇に堕とし、手中に収めることで初めて、「光にも闇にも価値はない」と光の国に証明できる。圧倒的な光であるタロウさえ、こうして闇に堕ちるのだ、光の価値などそんなものだ、と言いたかった。

というより、彼は、自らの好奇心に、苦しみ続けたのではないでしょうか。

映画のまさにクライマックス、「光を知るためには、闇を知らねばならなかった」のあとに続いた彼のセリフは、「光も闇も超越するために」。
小説にも同じ言葉があります、「いまや私は光も闇も超越した」と。そのあとに続くのは「光も闇も幻に過ぎない、全ては空虚だ。」

おそらく彼は、光も闇も、超越「したかった」のではないでしょうか。
光も闇も、そんなもの関係ない世界に行きたかった。もともと宇宙は混沌だったのだから、光も闇も意味がない、って彼はずっと言ってましたけど、それはきっと、自分に言い聞かせてたんだと思います。
宇宙遺跡で彼は「光にも意味がなければ、闇の中にも答えはない」と言いましたが、あれも、そう、タロウに聞かせる意味も確かにあったけれど、何よりも自分に言っていたんだと思います。

なんでこんなこと思うのかというと、彼がグリムドに取り込まれるときの言葉の意味が、小説を経て、わかってしまったからです。
「私は、私自身を解放する」

何から解放されるのかって、それは、意味などないと何度言い聞かせても、それでも、光を、友を知りたいと願ってしまう、その、狂おしい好奇心から。

知りたくてたまらなかった友の光。彼のすべてはそこから始まっていました。
彼は光の国を出たあと、闇に触れ、虚無や混沌に至った。
でも彼が本当に知りたかったのは、闇や虚無なんかじゃなく、光、なんですよね。
闇はあくまで、光を知るための手段であって。混沌にたどり着いたのも、たまたまというか、宇宙の始まりがそうだったというだけで、別に最初からそこを意図していたわけではなくて。
そして虚無は、その狂おしい好奇心を黙らせるためのもの、だったかもしれません。

ここに来て、小説から映画から、全てがつながりました。
彼の行動は全て、友の光を知るため。昔も今も、それは変わっていない。
でも、何をやっても、光を知ることはできなくて。じゃあ壊してみようかなって思っても、不気味なほどに壊れなくて。
それでもなお、その狂おしい好奇心は、光を知りたいと彼の中で暴れ続けたんです。
誰よりも、その好奇心に苦しみ、振り回され、苛まれ続けていたのは、きっと彼自身、ではないでしょうか。

友の光を知りたい、その好奇心さえ捨てられれば、彼は、こんな修羅の道を行かずに済んだのではないか。
わからないものはわからないや、って、どこかで見切りをつけることができていれば、あれもこれも全部、する必要のなかったことじゃないかと思うと。

そうなんですよ。そんなもの興味ないですけどー、って、堂々とあっさりと言えたなら、どんなに楽か。
かつて、自らがその光になろうとして、それが叶わなかったという経験をしても、そもそも光などに意味はないって思うことで、自分をなだめられるなら、それでいいのに。それで済む話なのに。

でも、自分でも不可解なことに、絶対に自分には触れられないものだってわかっているのに、というかなんなら、自分でもう触れないぞって決めているのに、それでもなお、光への興味は、興味だけが、消えてくれないんですよね。
たとえ触れることができたとしても、絶対に不完全な形にしかならないと、そう、ブルー族の力の限界に直面した彼のように、わかっているのに。だから、求めるのはやめると、そう決めたはずなのに。
自らが光になることを諦めてもなお、書物を漁ってしまう。彼がいろんな星でちょっかいを出して渡り歩いたように、いろんな話を聞いてみたり。彼が地球で行った実証実験のごとく、物語を書いてみたり。それとも、自分のような者が光を知ろうとすること自体、おこがましいのか?
もしかしたら、書物や理屈で知れないはずはないんだ、とどこかで希望を持ってしまっている、知識へのプライドのようなものまで、アーカイブに通った彼とそっくりなのかもしれない。
仕方ないじゃないですか、感情では納得できないんですから。理屈しか手段がないんですから。

光なんて意味がないし、自分はそんなもの興味はない、そう言い切って、一切のことをやめられたら、きっとものすごく自由になれる。
自分でもわかりませんよこんなん。でも、たぶん、自分はそういうふうにできてしまったのだな、と思うしかない。絶対に自分では手にできないことがわかっていて、自分の意志としても手にしないと決めたものに対しての、彼ほどじゃないかもしれませんが、本当に狂おしいまでの好奇心が、消えてくれない。実行しないしできない、とわかっているのに、興味だけが残って、ずっと狂い続けている。

だから、あれは彼の死なんかじゃなくて、彼が苦しみ続けた、己の中で暴れ続ける好奇心からの解放、だったと思うんです。
もうこれで、彼は、狂おしい好奇心に苛まれることはない。
永遠に手にできないものを求め続ける、決して満たされることのない不毛な好奇心から、やっと解放されたんです。


彼はウルトラマンとして生まれない方が幸せだった、と、前に思ったことがあります。
それは、主にTVシリーズ最終回で、彼自身(あの時点ではすでに)望んでいないのに、「光を守護する者」などと呼ばれてしまう悲劇を見て思ったことでした。トライスクワッドはそれぞれの出自を乗り越えたのに、彼はウルトラマンという生まれからは逃れられないのか、って。
でも小説を読んで、また別の理由から、同じことを思いました。
ウルトラマンという生命は、力がありすぎた。そして何より、生きる時間が長すぎた。
……不老不死であることによって孤独をこじらせる別作品のキャラを思い出してしまった。そういうキャラっていろいろいると思うので任意のキャラを思い浮かべてください。

さておき。
こんなになんでもできてしまう生命でなければ、彼の探求と実験は早々に頓挫して、ここまで来なくて済んだのに。
そして、こんなに長いときを思索に費やすことができなければ、もっと早く終わってしまう生命だったなら、虚無にたどりつくこともなかっただろうに。
短い命の中で、かりそめの絆に満足して生を終えられるような、そんな生命だったらよかったのに。

彼は映画での「解放」まで、何千年という時を、狂おしい好奇心と共に生き続けたんですよね。
それに比べたら、自分の人間の寿命くらい、どうってことないな、って思えました。大丈夫、それくらい生きられる。


6.絶望する権利

彼は私で、私は彼でした。
光を信じる世界で、光がわからなくて、世界は欺瞞じゃないかと思って、それでも、光への狂おしい好奇心を捨てられずに、もがくようにいろんなことをして。

ちょっと余談で、私は彼だ、と思うことがもう一つ。
小説本編ではなく、小説と同じくタイガ超全集に収録されている、武居監督(R/B劇場版をご担当、実質トレギアさんの生みの親)のインタビューにあった一文。
「僕の中では、カラータイマーをむしりとって、そこから漏れる光を拘束具で抑えてるという設定」
小説にたどり着く前にここを読んでしまって、うわあああああ、って誇張でなく一人の部屋で叫びました。
自分も、できることなら彼のように、自分の生まれを規定する器官を、むしりとってしまいたいから。つけてくれって頼んでもないのに、使う予定もないのに、ただお前はこう生まれたのだぞ、と身体に刻まれるためだけにある器官を。
だから、カラータイマーをむしりとった彼の気持ちが、痛いほどにわかる。そして、きっと、彼も私のことをわかってくれる、って思えて、また好きになる。


そう、ガチ恋って何度も書いてますけど、別に、愛してほしいとか、そういうことじゃないんです。
同じ気持ちの人がいる、それだけで救われる。それでいいんです。

あの光の国でさえ、彼のように、この世界はおかしい、わからない、って思う人が出てくるわけですよ。いわんや現世をや、って感じです。
自分の中にある、この世界はおかしい、わからない、わかるわけないのにそれでも知りたい、っていう気持ちは、この世で自分だけが一人孤独に抱え続けなきゃいけないものじゃない。同じように思う人がいる、自分は一人じゃない。
自分は、この思いを抱え続けたまま生きていい。そう思わせてくれたのが彼なんです。

私たちには、絶望する権利がある。
だってこの世はおかしい(と私には見えている)から。
これまで、サークル活動だとか、それこそでかいところではフェミニズムだとか、いろんなものとつながろうとしては離れてきました。そこでは、一緒にいようとか、共に立ち上がろうとかは言ってくれても、おかしいと思っていいよ、絶望していいよ、って言ってくれる人はいませんでした。まあ、単に自分が受け取り損ねていただけかもしれないんですけど。
そこにトレギアさんが現れたんです。彼は、直接、絶望していいよって言ってくれたわけじゃないけど、光の国の人の中にだってこう思う人がいるんだ、同じ気持ちの人がいるんだ、ってことが、何よりの救いでした。

一緒にいようって言ってくれた人たちは、彼ほどに同じ景色を見てくれる人じゃなかった。
戦おうって言ってくれた人たちは、絶望してる暇なんてない、って感じだった。
もちろんそれぞれの考え方があるでしょう。ただ自分に合わなかったというだけの話で。
ただ自分にとって、何よりも救いになったのは、どんな言葉よりも、彼という存在そのものでした。

そして、できるなら彼に伝えたい。
私はあなたと同じ景色を見ているよ、って。
最も、彼はタロウにしか興味がないでしょうけど。
でも、私はタロウにはなれないけれど、少なくとも、あなたと同じ景色を見る者であって、だから、私が、一人じゃないって思えてあなたに救われたように、あなたもまた一人じゃない、って。

小説の最後に、彼は多次元宇宙にいくつも存在していると書いてありました。
じゃあ、またいつか会えるかな。新作のギャラファイの予告に映ってましたしね。
いや、会えなくてもいい。宇宙のどこかに、彼のように、誠実で嘘のない人、同じ気持ちの人がいてくれると信じるだけで、それだけで生きていける。

あとは、小説を読んで、自分にも、タロウに似ている部分もあることに気づきました。
一方ではタロウのように、光の側面しか見ないと決めていて、でも一方で、真実を暴いてくれるトレギアに救われる自分もいる。
そう、つまり、私という人間は、映画で彼が言っていたように、「混沌そのもの」だったんですね。だって、人間だから。
きっと彼は、この混沌を面白がってくれるはず。
そういえば今日、映画で「地球は最高の遊び場だ」って彼が言ったとき、遊んで♡って思ってました。
…なんだか、二次創作というか、いわゆる夢小説ってやつが1本書けそうですね。
トレギア怪文書シリーズ、これで最後にしようと思っていたのですが、まさかの続きができそうです。

ここまでお読みいただいた方がいらっしゃいましたら、本当にありがとうございました。

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