刀ミュ「静かの海のパライソ」感想

TLの皆様の悲鳴を薄目で見ること約2か月、先日ついに宮城公演を見届けてまいりました。なんと丁寧な地獄…。歴史を予習して行ったんですけど、あれもこれもぜんぶウィキペディアで見た…(T_T)ってなりました…。史実のしんどさを全部丁寧に拾い、かつそれを刀ミュとして仕上げている…。歴代刀ミュの中でいちばん好きかもしれません(悲劇好き)



鶴丸が島原に行きたくなかったのは、確実に多くの人をちゃんと歴史通り殺さなきゃいけないってのももちろんありますが、
「おそらく三日月は助けに来ない」ことがわかってたから、なんでしょうかね…。

自分、葵咲を見て、すっごいもやもやしてたんですよ。
本物の吾平はあんなにあっさり死んじゃったのに(そして伽羅ちゃんはあんなにつらい思いをしたのに)、三日月は、信康=二代目吾平のことは助けるの?とか、
主に秀康と御手杵周りの、歴史から「消される」ことができるのは、いったん歴史に名を残した人の特権でしょう?そもそも庶民にはその問い自体発生しないでしょう?とか。
全部、鶴丸の絶叫が答えてくれた。
名を残したやつだけが歴史じゃねえんだ!助けてみろよ、救ってみろよ、3万7千人!!!数字じゃねえんだ!!!!一人ひとり生きてたんだよ!!!!

序盤、まるまる10分くらい、刀剣男士は出てこず、庶民がそれぞれ楽しく生きてたのに弾圧されて、天草四郎のもとに集う姿が描かれていて。ここの説得力がすごいんですよね。この人たち、こんなにたくさんいて、それぞれちゃんと個性があって、元気に生きてるけど、これが全員、一人残らず死ぬんだ、って…。
自分が最近観劇したのが、少数のメインキャストで魅せるタイプの作品が多くて、こんなにアンサンブルさんがいる舞台は久しぶりだったんです。だから余計に圧倒されちゃって。
これが、名もなき民。島原で死んだ大勢の人々。でも一人ひとりにちゃんと個性が、人生がある。

そして、その3万7千人を、たった一人を除いて、皆殺しにしなければならない。
これこそ紛うことなき、「歴史の中での悲しい役割」でしょう。

歴史の中で悲しい役割を負わされている人、と言って、三日月は頼朝や信康、平将門にアプローチして、死ぬ運命を変えようとしてきましたけど。
悲しい役割って、何も死んだ人だけじゃないですよね。
というかむしろ、人を殺してもなお生きている人、のほうがつらいじゃないですか。だって、死んだら感情も記憶も何にも残らないけど、生きている限りは、自分のしたことを背負い続けなければならないんだから。(別件ですがTRUMPのオタクはここで黑世界を思い出しますね…)
今回で言うなら、さながら刀剣男士のように歴史を俯瞰して、自分の役割を自覚していた伊豆守や、たった一人パライソに行けず生き残った右衛門作。あとはもちろん、あの兄弟。母親が殺されても「生きていかんばならんけんさ」。その母を殺した一揆に加わり、人を攻撃する役割に回らなければならない、生きるため、弟を守るため。
鶴丸は、彼らこそが真に「悲しい役割を負わされている人」だと理解しているんですね…。自分もこれに関しては鶴丸派ですね、殺されるのももちろん悲しいけど、殺した罪を背負って生きていく方が、もっとつらくて悲しいに決まってるじゃないですか…。

松井を部隊に選んだのも、もちろん彼の知識が必要だったり、自分の過去に向き合わせたりもあるでしょうけど、三日月を試していた面もあるかもしれません。松井始め幕府方だって、悲しい役割を背負わされた人、じゃないですか。何も殺したくて殺したわけじゃなくて、それが幕府軍としての役割だから、殺さなきゃいけなかった。だから、松井にまた血を吸わせたくないと思うなら、助けに来てみろ、この歴史を回避させてみせろ、と…。

鶴丸、ものじゃねえんだ!!!!とも叫んでましたけど、これも的確な言葉だと思いました。
三日月の悲しい判定は、モノ寄りの思考なんですよね。「ある」ことが良いことで、「なくなる」のは悲しいこと。有か無かみたいな思考。だから、さながら有名な刀が折れるように、名のある人が死んでしまうことを、「悲しい」と呼んで助けようとする。
でも鶴丸は、心を持つヒト寄りの思考。ヒトにとって真に悲しいのは、ヒトだけが持つその「心」に、重荷を背負い続けること…とちゃんと理解している。
そう考えると、三日月は、頼朝とああして何度も語らいながらも、本当に心を寄せてはいないのかもしれませんね。そして、そんな三日月だからこそ、”機能”を果たすことができるんでしょう。ただ歴史通りに動け、とそれだけを伝える。心優しい石切丸だったらとてもじゃないけど無理。
果たして三日月は、刀だった頃のモノ思考からずっと変わっていないのか、それとも、刀剣男士として一度は学んだはずの心を、うたかたの役目を果たすうちになくしてしまったのか…

これまでの刀ミュは、2作ずつ話がつながってるようなつくりになってましたけど、もしかしたら、パライソ&心覚で、「三日月宗近という機能の限界、綻び」を描いているのかもしれないな、と自分は思いました。将門には断られてるし、水心子の混乱も、自分は、三日月が歴史に手を出しまくったせいだと思ってるので…。
神様は見えないけどいるとか、天国と地獄の境界線とか、心覚につながるようなキーワードもいくつか出てきましたし。
あと、戦場に猫いましたけど、そんな都合よくいますかねえ???犬ならまだわかりますけど???

で。鶴丸は、そんな三日月の考え方も全部ちゃんとわかっていて。だから、島原の民を助けに来てくれることもない、って見通していたんでしょうね…。三日月には、名前のある刀のような、歴史に残る人物しか見えていないから。
そして、思いを共有する相手としては、伊豆守と、右衛門作を選んだ。自分と同じく、3万7千人の死を、その目に、その手に、その心に刻んだ人間たち。同じ重荷を背負う心の持ち主たちを。

ステでは三日月の背負うものを支えたいと思ってるように見える鶴丸だけど、ミュはまた違う関係性なんですね。共有する相手としては選ばず、歴史に対して違うアプローチ、違うスタンスを持っている。
戦をしている理由なんて人それぞれ、のあと「俺たちもそうじゃないか」って鶴丸が言ったとき、最初はえっそうなの!?みんな歴史を守るという一つの目的のために戦ってるんじゃないの!?と思いましたけど、この三日月とのスタンスの違いを考えると納得がいきます。歴史を守るという前提の上で、どのように守るか、そしてどう歴史に干渉していくかは、この本丸ではかなり個人差があるようですね…。

それ以外での鶴丸の態度も印象的でした。
真実なんてどうでもいい、大事なのは事実、と言うのは、鶴丸自身の来歴のようだなと思いました。なんで鶴丸って名前なのかはよくわかんないけど、はっきりと国永の銘を切られて、今ここにある。だったらその事実が全て、それを守らなきゃいけない。
鶴丸にとって、”真実”は、右衛門作が語ろうとしたような、戦を選んだ「経緯」のことで、一方の”事実”は、右衛門作を除いた3万7千人が死んだ、という「結果」のことなのかな、と思いました。
あとは来歴の話で言うと、鶴丸は一度、死んだ人の墓まで供をしたことがあるわけじゃないですか。でも今回は、ただ人が死んでいくのを見送るしか許されない。自分は全て終わったら本丸に帰らなくちゃならない、ついていくことはできない。そういう面でのつらさも感じました。

そして、これはなんとなく感じたことなんですけど、葵咲からずっと、「真白」「無垢」という面が強調されているような気がしてて。ミュ審神者が葵咲で、無垢な舞、と所望したのが鶴丸。そして今回は、無邪気にパライソを信じるフリだとか、あるいは、三日月のように裏の手を使わずに、ごまかしはできない、本当に皆殺しにしなければならない、と任務にぶつかっていく姿だとか…。
細い月であれば、闇夜に紛れることができる。黒き衣をまとい、暗躍することができる。でも白い鶴はただ、その真白な姿をはっきりと示しながら飛び続けるしかない、のかなと。
さらに言えば、この任務では、心を殺して、「無」の意味の真白になろうとしていたのかもしれません。まあ伽羅ちゃんにはお見通しでしたが。

それぞれの心の守り方、なんですよねきっと。深入りせず馴れ合わないことも、一人で抱えて飄々と振る舞ってみせることも。本当は伽羅ちゃんは心の柔らかい子だし、鶴丸だってこんなに突き放すように一人で抱えず、自分がサポート側のときはすごく頼りになる。
でも、そんな本来の姿を封印しなければならないほどなんですよね、この任務は…。
だって、モノ思考を嫌う鶴丸が、本物の天草四郎の遺体に向かって「それはもうただのものだ」って言うんですよ…。もうこの最初のほうから、自分を憎むほどに演じ切ろう、と決めてたんですよね…。

静かの海、そこに風は吹かない。鶴丸はそれを退屈だとか言いながら、本当はそうだったらよかったのに、と思ってますよね…。伽羅ちゃんの前でだけ、少しだけ本音を覗かせる場面。
あの驚きを求める鶴丸が、静かの海に行ってみたいなどと。その真意は、こんな反乱なんて起きる歴史でなければよかった、なのか、それとも、遡行軍が四郎を殺すという波風を立てなければ、自分がこんなことしなくて済んだのに、なのか…。



日向くんに、仲間集め、させるの、鬼かな?????
だって、元の主は、まさにその、仲間集めが、下手だったというかなんというか…。
しかも、パライソって言うだけで本当になんとかなっちゃって…ねえ、三成様のあれはなんだったの????ってなるじゃないですか…。
一般的な三成評として、豊臣政権を守るという理論的正しさはあっても人望がなかった、みたいによく言われますけど。
正しさも人望も関係ない、大事なのは、何を掲げるか、何を祭り上げるかだったんだ、って、日向くんは静かに悟ったのではないでしょうか…。
はっきり語られはしませんでしたけど、お孫さまとして祭り上げられてるところで、無邪気な浦島くんとは違って、ああ人はこれで動くんだ、って戸惑いながらも達観しているように見えて。人を集めて動かすのに必要なのって、これだったんだ、こんな単純なことだったんだ…って、知ってしまった、理解してしまったショックがあったように感じました。そりゃうまくやろうとは言ったけど、こんな、こんなことでうまくやれるなんて…って。
だからそのあともすごく冷静で、豊臣時代のキリスト教政策についても、そこまで自由じゃなかったよってちゃんと言ってくれるんですけど、(貿易を続けたため徹底はされなかったが禁教自体は行った)、その冷静さが、物語の本筋とは違うところで、一人で大人になった日向くん、って感じがして…。あのシーンの最後も、民衆に取り囲まれてキリっと前を向く表情、ほんとに覚悟が決まってて…しんどかったですね…。

ちなみにこの、天草四郎=豊臣家の子孫説って、やっぱりあの、ステ天伝の伝承と地続きらしいです。秀頼は鹿児島に、ってやつ。
テーマからして綺伝と少しリンクするかな?と思ってたんですが、まさかの天伝。



そして、日向くんと対照的なのが浦島くん。今回、見てていちばんしんどかった男士かもしれません。
敵をだますには味方から、じゃないけど、こういうはったりかますときに必要な、いわゆる「仲間だけど何も知らない人」のポジション、ですよね…。この手の作戦において、こういう役割の人ってほんとに効果的なんですよ(いろんな作品で見た知識)。鶴丸たちが浦島に何も教えないのも、きっとそういうことだったんですよね。知らないままの方が作戦として都合がいいから。浦島自身が、だんだん事実を理解していくとつらい思いをすることくらい、全部わかった上で、この作戦を取ったんですよね…。
パライソが何かもわからず、とりあえずやってみるかー、って叫ぶ。策略としては大成功なんですよね、下手な芝居よりも、無邪気にいいものだと信じて本気で叫んでいる姿の方が、人を惹きつけるから。それを一歩引いて見ている松井がまたしんどい。だって、パライソに、天国に行くってことは。そりゃ天国に行けばおっかあには会えるとは思うけど。その子は行くにはまだ早いんだよ。

前半、天草四郎だ、秀吉の孫だ、って信じて盛り上がっちゃう人々の姿が描かれましたけど、浦島くんも前半はこの、盛り上がっていくというか、はっきり言えば、ちょっとおかしくなっていっちゃう民衆と同じ立場なんですよね…。戦や任務を計画して仕掛ける側ではなく、受け手側。もっとありていな言い方をすれば、騙されてる側。それがつらくてつらくて…
だって、伽羅ちゃんが「深入りするな」と、つらい思いをするのは自分だぞ、とせっかく言ってくれようとしてるのに、それを鶴丸はさえぎって「歴史が変わってしまうから気をつけろってことだ」って…。ここほんとに、鶴丸は徹底的に浦島を騙し続けて、何も教えないまま、自分で見聞きしたことから自力で大人にならせようとしてるんだ、ってのがはっきりわかって…。つらい。

最初は、こんな天真爛漫な浦島くんになんてことしてくれるんだ、って思いました。でもきっとこの人選にも意味があって。
一つは、兄2人のアフターフォローが期待できる浦島だからこそ、こんな過酷な任務に選ぶこともできたのではないか、ということ。
そしてもう一つは、あの兄2人といつも一緒にいることは、必ずしも浦島のためにならないのではないか、兄の庇護のもとから離れて大人になる必要があったのではないか、ということです。
ほんとにこの鶴丸は、何もかもを考えた上でこの編成を組んだと思うんですよ。だから、最後の総攻撃の前には、それとなく釣りに行くよう仕向ける。ここまでは向き合わせる、でもここまででいい、ってのを、ちゃんと考えてたんだと思うんです。

壽乱舞音曲祭で曲を先に知ってるという不思議な状況で、Twitterで「海と夕焼け」はあんな楽しく見れない、みたいなの見かけてたんですが、そういう、そういうシチュエーションで歌うんですね…。これっておかしいんじゃないか、ってだんだんわからなくなってきて、何かの救いを求めて海を見に来て。そんな自分もつらいってときに、あの兄弟に元気を出させようとして…。
浦島くん、兄ちゃんたちの気持ちがわかった、って言ってましたけど、それは、確かに弟が大好きだから弟の前では空元気を出してる面もあるけど、決して無理してなんかじゃなくて、そうすることで二人の兄自身も救われてる面もあるんだ、って、わかってくれてるといいな…。

長曽祢兄ちゃん的には、弟に信じろと言うのが三日月と鶴丸なんだ?ってのがなんか意外でした。
まあ、初期刀の加州と、初期から本丸を支えている蜂須賀は、どちらも身内だから、あえて…なんでしょうかね。
少なくとも長曽祢さんは、三日月を怪しんではいない、ということですよね。まあ、旅に出ちゃってるから、心覚とかの不穏は知らないのか…

これは妄想ですけど、蜂須賀は、この部隊が帰ってきて話を聞いたら、鶴丸のこと一発殴りそうだなあ…と思いました。そしてそのあとありがとうって言いそう。つまり、松井と豊前がしたのと同じことをしそうだなあ、と。
蜂須賀は、美しいと飾られていたこと、非実戦刀であることを恥じてなどいなくて、むしろ誇りに思っている。だけどミュ本丸の蜂須賀は、天狼傳で人を斬ってしまってるんですよね。強くならざるをえなかった人、に少しでも寄り添いたくて。
だから、島原さえも知らない浦島にはせめて、本物の虎徹として、任務で遡行軍を斬ることはあっても人は斬ったことのない、戦を知らずに飾られていた刀でいてほしかったと思うんですよ…
でもそれが兄としての我儘だともわかっているから、何してくれてんだって殴ったあと、兄ではできない方法で強くしてくれたことに感謝する…んじゃないかな、と。



今作でのバックアップ要員?の、伽羅ちゃんと豊前がすごく対照的でした。仲間が集まったぞ、さあライブだ、ってときに、旗を無心で振る大倶利伽羅と、戸惑いながら豊臣の馬印を掲げる豊前の対比がえぐくて…。伽羅ちゃんはもう、繰り返しになりますけど、浦島くんに放った「深入りするな」の言葉がすべてですよね。もうこれは任務として、心を閉ざしたままやり抜くしかないんだ、そうしないと自分が傷つくんだ、ってわかっているから。
でも豊前は、これ時系列としては心覚より前で、まだそんなに経験も多くないでしょうから、これでいいのかなあ、みたいな感じ。なんなら、静かに覚悟を決めた日向よりも、豊前の方がまだ決めきれてないような。

でもそのあとの豊前は、まさしくリーダー、でした。この鬼采配をした鶴丸に、今なら俺が一緒にいてやれる、あんがとな、ですからね。これが言えるってすごい。そして松井の抱えるものを受け止めて、寄り添って。心覚では、私が斬りますっていう五月雨の申し出も断ってましたけど、全部俺が、って言うんですよね。今度は豊前が壊れてしまわないか心配になるくらい。
この振る舞い、どこか巴形薙刀とかの、逸話なき者にも近い感じもするんですよね…。江の抱えるものを全部受け取ることで、存在のない自分の存在を確かにしようとしているみたいに見えて。俺両手空いてっからよ!はつまり、自分では何も持ってない、ってことにもなりますし。豊前に限って大丈夫だとは思うんですけど、少し心配になる。稲さんの例もあるし、あの心覚での俺たち江は!の続きが、いいものではない気がしているので…。

心覚での豊前は、あの海を「綺麗だった」「見せてやりたい」と振り返ってましたけど、改めて思い返すと、すごいですね…。これを、この出来事を、綺麗な海、という言葉で。まあ、そうですよね、そこで何が起ころうとも、「海"は"」綺麗だったんですよね。その事実に間違いはない。
きっとそれが、豊前の強さなんですよね。たぶん石切丸より鶴丸より大倶利伽羅より、強い。海は綺麗、というように、事実は事実のまま受け止めて、目の前の出来事に心乱されることはない。だって、心覚では、無理に自分の心を閉ざすことなくがっつり関わりを持って、でもちゃんと斬るべきときに斬って…。今回も、ちゃんとすべてをしっかりと見て、自分だってつらくないはずないのに、松井を支えることに徹して。何もかもを受け止めた上でなおしっかりと立っている。
そう考えると、あの馬印を掲げていたときなどに見えた迷いも、強いからこそなのかな、とも受け取れますね。伽羅ちゃんのように心を閉ざしたり、鶴丸のように装ったりせずに、迷っているという心をしっかり持ったまま、いわば正気のままでこの任務を遂行しようとしている。
もっともこれも、江の不穏な見方を当てはめるならば、あれを見て傷つくほどの情緒が育っていないから、というふうにも取れるんですけどね!果たして真のタフネスメンタルなのか、あるいは心のないサイコパス的な感じなのか…

豊前と大倶利伽羅がなんだかんだ仲よさそうにしてるの、かなり解釈一致でした。
光忠とかはもう、何も言わなくてもちゃんと大倶利伽羅の言いたいことを理解してくれるんですけど、豊前はなんか、理解できなくてもとりあえず仲良くなっとくか!ってパワーがある。これがリーダーの素質、というやつなのかなと思うんですけど、ほんとになんでも受け止めてくれるんですよね。懐が広いというか。だから大倶利伽羅が無口でも、そうかそうかお前はそういうやつなんだな!オッケー!みたいな。
大倶利伽羅も、変に会話を引き出そうとしてきたり、まともにコミュニケーション取ろうといろいろしてきたりするのではなく、ありのままに接してくれる豊前には、心を許してそうな気がします。



島原の乱以後、ほぼ幕末まで、本当に国内で血は流れないんですよね…。
よくこの手の話だと、それこそステ天伝は最後の戦に間に合うかって言われてたように、大坂の陣が挙がりますけど。それは武将同士の戦のみをカウントした場合。
決して正当化はできないんですけど、せめてその流した血に無理矢理にでも意味をもたせるならば、太平の礎、なんですかね…。

刀の彼らは、もうたくさんの戦を見てきてるから(浦島以外)、鶴丸が断じるように、戦なんて間違ってる、ってわかる。
でも人間の生は、彼らよりずっとずっと短いから。だからわからないんです、覚えていられないんです。愚かな人間を許してね。こんなにたくさんの血を流さないと、戦をやめることができないの。ほら、あの伊豆守の家臣の二人も、二人とも初陣で、関ケ原や大坂の陣の話を親に聞いた、って言ってて。それほどまでに人の世は儚くて、どんな戦もあっという間に過去になってしまう。だから戦の痛みもすぐに忘れてしまうんです。
さらに付け加えるなら、歴史上、根絶やしにしなかったことで痛い目を見る、ってのは、源平の世からこの時点の直近の大坂の陣まで、実例がたくさんあって。だから本当の本当の本当に終わりにするために、仕方なかった…とは言いたくないな、でも、意味をこじつけることで少しでも、人を斬った松井が、みんなが救われてほしい。

松井の血への執着は、自分の血で、自分が斬った人々の血を洗い流そうとするもので。それを、明け方の空の色になぞらえて歌うところが好きです。
正確には、松井が歌うのは「朱に染まった明け暮れ時」で、そのあと豊前が「ともに朝を待とうか」って歌ってくれて初めて、夕暮れではなく明け方であると確定するんですが。
子守歌とかで何度も、朝昼夜、というモチーフが出てきていて。夜にしか見えないけれどそこにある月のように神もいるとか、自分が感じたのは前述の、夜に紛れる月と、夜でも目立つ白い姿の鶴とか、いろいろな使われ方をしてたと思うんですけど。
ここで感じたのは、朝と夜は必ず繰り返し訪れるものだということ。それは、何をやっても結局戦を繰り返してきたこの歴史のようで。でも、松井が、明け方の赤い空、その時間で立ち止まっていてくれるなら。もう新しい朝はやってこない。新しい戦は、起きない。血のように真っ赤に染まった空、その赤で時間を止めることができれば、新たな戦の歴史は繰り返されない。
夜が明けない、ってわりと絶望的に使われる表現ですけど、繰り返す日々を、繰り返す戦、と捉えると、新しい日がやってこないことは、救いにもなるんです。だから、夜に向かう夕暮れの赤ではなく、明けの空。夜が明けて、戦が開かれてしまう、その手前でとどまることに意味があるから。

伊豆守は幕末天狼傳での近藤のように、何か察している人のようにも見えましたけど、そうでなくても、政のために果たすべき役割がわかっていた。彼の目的は、自分自身が後悔を背負うことだけじゃなくて、この戦に参加した人々、見聞きした人々にも、同じ後悔を背負わせること、だったのだと思います。それでふたたび血が流れない世を作れるなら、と。

右衛門作も、お前が背負いなと鶴丸に言われ、考え続けるのが役割だと伊豆守に言われ。鶴丸の「長生きしろよな」は、同じ苦しみを背負い続けような、ってことですよね…。
右衛門作は、四郎の死を悲しむばかりで動こうとしなかったり、嘘八百で日向を祭り上げたり、かと思うともう戦いをやめようとか言ったり、結構、お前なあ…!みたいな造形をされてたと思うんですけど、最後。見つけたぞ天草四郎だ、として運ばれてきた、あの兄弟の兄を見て、泣く。この瞬間に、右衛門作は本当の意味で「背負う」ことができたのではないかと思います。自分は、こんな名もなき民を、祭り上げ、扇動し、そして死なせたんだ、と、あの瞬間に理解したように見えました。

でも、伊豆守や右衛門作がどれだけ考え続けてくれたとしても、人間の命は短いから。少ししたらすぐに、江水散花雪、そして幕末天狼傳へと時代はたどり着いてしまうんですよ…。なんと儚い…。
浦島も松井も、考え続ける、って言ってくれましたけど。人間よりも長くこの世にある、刀の彼らが考え続けてくれるのは救いでもあります。でも結局、時代が下れば、村雲江に縁のある忠臣蔵事件が起き。そして何より、再び血の時代が訪れなければ、浦島の長兄は、その名で呼ばれ、その逸話を宿すこともないんですよ…。血の時代があったからこそ、長曽祢虎徹という刀剣男士はああして顕現したわけで…。



最後、本丸シーンから、島原のみんな…一揆軍側だけでなく、幕府軍もみんないる場面。
あれ、きっと、みんな、パライソに行ったから…なんじゃないかな、と直感で思いました。
よく二次創作で見かける設定ですけど、神域、というか、本丸がある場所って、なんかこう、現世ではない神様の領域だと思ってて。付喪神がこんなにたくさん暮らしてますからね。
そんな場所だからこそ、天国に一時的に繋がって、みんながパライソで楽しく暮らしている様子を、本丸から覗き見ることができたのかな…なんて。


何がびっくりするって、今回、遡行軍はほぼ何もしてないんですよね…天草四郎殺しただけなんですよ。
いやでも、やっぱり思想が見えなくて怖い。ステでも言ってますけど、レキシューに一貫した政治思想を感じないんですよね。なんで四郎殺した?歴史改変ってオーソドックスに考えたら、反乱側勢力を応援して、権力者を潰すじゃないんでしょうか?
まあ、だから、おそらくそういうことじゃないんですよね。幕府だキリスト教だどうでもよくて、それこそ鶴丸が重視する「そこで戦があったという事実」を破壊することさえできれば。
でももしかしたら、遡行軍も、わりと考えた策だったのかもしれません。反乱の首謀者を殺せば、反乱は止まり、歴史は平和になる。この、ある意味プラスの改変さえも、刀剣男士は阻止しようとするのか?もしかしたらこの改変なら、刀剣男士たちは手を出せないのでは?と。
まあ実際は刀剣男士たちによってきっちり血は流されたわけですけどね…遡行軍もびっくりしてるかも、あ、刀剣男士、歴史のためなら人間でも容赦なく殺すんだ…って。

だから今回の殺陣、遡行軍相手よりも、人相手の方が多くて…ほんとに、ステの殺意!!!っていうのとは対照的に、芝居の中に殺陣があって、迷いの度合いがその都度現れてて…。
浦島や松井なんかは特に、殺す殺陣よりも、防ぐ、弾く動きが多かったんじゃないでしょうか。浦島の逆手持ちって本来、刃が外にあってより殺傷能力の高い持ち方だと思うんですけど、それでかわしつづけるから、よりしんどみが増す…。斬ろうと思えばすぐ斬れるどころか、ちょっとミスしたらすぐに斬れてしまうような持ち方で。蹴り技主体の軽やかな動きも、そのスタイルを選ぶ必要性、みたいなことを考えると素直にかっこいい!って楽しむだけではいられなくて。
松井は、斬りたくないときと、覚悟を決めたあとで、ギアの入り方が違う気がしました。斬るときも、なるべく手数少なく斬っている?そしてそのトップギアに入った直後に、あの兄弟と対面してしまって…急ブレーキをかけるような、ギリギリの力のせめぎ合いがありました。
あとは日向の殺陣が印象的でした。ミュの短刀はこれまで今剣しかいなかったので、ここに来てようやく、ザ・短刀の立ち回り!みたいのをミュで初めて見たので。ステの粟田口みたいな、接近戦の多い殺陣。今剣はずーっと走ってるからまた違うんですよね。そして膝が…すんごい綺麗…ステ薬研にも勝るとも劣らない!懺悔します、ずっと膝の絶対領域を追ってました←立ち姿の膝の角度がまた、立ち絵にそっくりなんですよね…!


あと、よくこの話を宮城公演まで持ってきたな、と。宮城の海。自分はそういう感傷めいたものはむしろ嫌いで、海はただ綺麗で気持ちいいもの、って浦島くんと同じ気持ちなんですけど。
そう、人間は、キリスト教、悪政への反乱、豊臣勢力の反抗、そんな余計なことをごちゃごちゃ考えて、そんないろんな人の思惑が重なり合って、愚かにも戦を選ぶ。
海にとっちゃそんなことは関係ない。海の前では何もかも意味がない。なんでそんな海の目の前で戦うんだ、って気持ちはよくわかる。海はただ、海。意志とか感情とかなくて、ただそこにある。それだけだよね。
海は綺麗だ、と刀剣男士が言うのは、こんな様々な人間の思惑=「心」が渦巻く戦のなかで、なんの心も宿さずに、モノとしてそこに変わらぬ姿でありつづける海が、元はモノだった彼らにとって、どこかほっとするものなのかなと。




ようやくライブの感想が書けます。あんまり記憶がないのであっさりめですが。
松井!!!!!!!細川家推し、かつ、特撮作品(ネット配信スピンオフですが)に出てくれた笹森くん推しは多賀城に墓を建ててきました。
のっけからソロなんですが!?!?!?!?!?ってのも衝撃だったんですが(正直もらえると思ってなかった、伽羅ちゃんか豊前かと)、歌めっちゃ上手くなったね!?!?!?!?これはソロ行くわ!!!!!!!!!!
蜂須賀の天狼傳2020→CDアルバムもめちゃくちゃ歌上手くなってて別人か!?ってなったんですが、いや、別人な感じはしないけど、歌、うま……!!!!!!
まあ、1部の曲から歌はうまいなと思ったんですけど…最初の松井ソロ曲(ピアノとチェンバロ?の短調がなんかハロウィンっぽいなと思った)からして、絶妙なテンポのずらし方してましたし…
壽乱舞音曲祭のCDで、「FreeStyle」の松井ソロパートは特徴的な声だな~好きや~とか思ってずっと聞いてたんですけど、え、おんなじ箇所を歌ってるのに全然違う…!!めちゃくちゃ歌上手くなった!!!!
で、最終形態。身体ほっそ!!!!!!!そして、あの、現地観劇日、遠目からだと上下つなぎに見えて、まさか歌仙の例のあのインナーみたいなつくり!?!?!?と動揺してしまいました。そんなところで主家に義理立てせんでええんよ。配信でつなぎではないとわかりましたが、いやそれでも、他の誰よりも布面積が広いはずなのに、なぜこんなにセクシーなの…???見せてないからこその色気がやばい…身体細すぎるのに首元だけフリルのそのアンバランスさ…罪だよ…

あと、これも現地で見たのですが(スイッチング配信ではカメラに入ってなかった)、
本編でもちょっと和み要素だった伊豆守家臣の2人が、ライブ中、それぞれで叩いてた太鼓が1つ中央に持ってかれる→え、太鼓待ってよ~ってしてる人を、もう一人が、残った方一緒に叩こうぜ!みたいなジェスチャーして、2人で叩いてからバチでハイタッチ、という一幕がありました。これ日替わりなのかな?かわいかった(笑)

そして「戦う者の鎮魂歌」…これがトドメでしたね…
いや、そう、わかりますけど。鎮魂歌を歌わないといけないのはわかるけど、「刃研ぎその日待つ」じゃダメなんですよ…もう二度とその日が来ないための物語なんだから…と初見では思いました。
でも配信で二度目を見て、刃を研ぐだけで振るうとは言っていないし、刃も研がずに安穏と戦のない日々を暮らす、っていうのも、確かになんか違うな、って気がして…使うつもりはないけれど、刃を研ぐという行為、その、戦の一歩手前の、ギリギリの緊張感でバランスを保ち続けることが、このパライソ後の歴史に求められてることなのかなあ…と。


CDシングルはすでに情報が出てますけど、アルバムをください…足りない…もっと浴びたい…←とりあえずディレイ見ろ
ここまでお読みいただいた方、ありがとうございました。

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