トレギアさんガチ恋勢がたどりついた解釈と結論~彼の意志を継いで

つい先日、「小説まで読んだトレギアさんガチ恋勢の末路」として投稿した文章で、トレギアさんガチ恋怪文書シリーズは、終わりにする予定でした。

しかし、今日もまた彼のことを考えているうちに、ふとひらめいたことがあって。
大げさに言えば、ああああそうじゃん!!って叫びだしたくなるような、雷に撃たれたような。自分のためにどうしても、そのことを書き残しておきたくなったんです。個人的な記録の意味も強い駄文ですが、ご興味のある方はおつきあいいただければ嬉しいです。

TVシリーズ・Youtube配信のギャラクシーファイトを見て映画前夜に書いた解釈と期待はこちら
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前回の記事を改めて読み返すと、強く生きるぞとか言っておきながら、病んでるなあ、って自分のことながら思います。
しかし、思い返してみると、映画公開前の時点では、トレギアさんのことを考えて、ここまでしんどくなってはなかったんですよ。こんなに病んでる感じになったのは、映画と小説を経てからなんですよね。
今日、どうしてこうなったのか、やっとわかりました。

TVシリーズやギャラファイで見ていた彼の姿からは、彼がかつて光を渇望した者であることを、そこまで感じ取れていなかったんです。
もっとも、タロウが光である以上、光など初めから全く眼中になかった、ってほど極端ではないのは、わかっていました。それでも、彼と光との関係は、かつて光を是とする国にいて、友の光を眩しく感じていた、と、せいぜいそれくらいだと思っていたんです。

今思えば、想定が甘かったとしか言えませんね。
どんなに近づこうと望んでも、どうしても手に入らず、理解も納得もできないもの。彼にとっての光とは、そういうものだったんですよね。
だからこそ、あんなにも、ヒビを入れようと、壊そうと、価値などないと証明しようと、さまざまな手を尽くしてきた。

そんな彼の行動を、映画の前までは、光しか見ない人々に闇を見せつけるため、この世に闇が存在することを友にわかってもらうため、と解釈していました。
別にこの解釈も、間違ってはいないと思っています。
ただ、それは、幾千年の時を経て彼がたどり着いたものであって。あくまでこれは、TVシリーズ時点の彼の姿、であって、彼の根幹に迫るものではなかった、ということです。

小説を読んで、わかりました。
友に闇をわからせたい、というのは、一つの挫折のあとの、第2プランだったのだと。
本当は、友と同じく、光にあって、並び立ってみたかった。
でも、その願いが叶わなかったからこそ、彼は、「友と同じ景色を見る」ことを実現するため、友に、こちら側に来てもらおうとしていたんですよね。光を壊して、光がなければ闇にも意味がないとわかってもらうことで、「同じ場所に共にいる」という状況を作り出そうとしていた。そして映画ではついに、最終かつ強硬手段に出た…と、そういうこと。

小説を読んで、彼の本質を知って、自分も苦しみました。
これは自分だ、自分も彼と同じことを願ったことがあった、と、思い出してしまって。
一度は求めたものだからこそ、こんなにも未だに執着を捨てられずにいるんだ、求めたことがなければこんなに執着しないのだぞ、っていう事実を、突き付けられたようで。かつて求めていたことなど、そしてそこで挫折を味わったことなど、忘れたつもりだったのに。
さらには、自分が近づけない光を、友がさも当たり前みたいな顔をして体現していて、そんな友に距離を感じてしまった経験も、彼と全く同じなのだとわかって。なんなら、あのときのあれもそれも、そういうことじゃん、と気づいてしまったりなんかして。きっとこの先も、隣にいると思っていた友が、光に奪われる、と感じるような経験を、何度もするんだろうな、と勝手にショックの先取りまでしてしまって。

映画・小説履修前は、彼は闇を見てくれる、だから私を見てくれるんだ、って素直に思えてましたが、
映画と小説を経て、彼は私を見てくれるというよりも、私と同じなんだ、って、気づいてしまったんです。

だから、前回の記事の終わりでは、絶望する権利について綴っていました。
光の国に生まれた彼が、光を理解できなかった。その、永遠に埋まらない断絶を抱えながら、彼は何千年という時を生きた。
だから自分も、この絶望を抱いたまま、生きていいんだ、って。
彼は直接、絶望していいよって言ってくれたわけではないけれど、でも、彼のような生き方でもいいんだと思えたこと、自分と同じ思いを抱えている人がいるんだということ、それだけで、生きられる、って。

自分は一人じゃないと思えること、確かにそれも一つの、生きる力にはなります。
でも、それだけじゃダメなんですよね。生きていくには、それだけでは足りない。今を生きるための支えだけでなく、何か目標のようなものがないと、未来を生き続ける意味にはならない。
彼が私と同じ思いを抱えていてくれる、という事実は、確かに私の絶望を肯定して、寄り添ってくれはしたけれど、これからを生きる意味をくれたわけではありませんでした。
なんなら、彼とシンクロするあまり、絶望に引っ張られていたようなところさえありました。
だから前記事では、生きていける、生きていいと思えた、とは書いても、生きようと思った、とは書けなかったんですね。

自分がこれから生きていく意味を見つけるには、やっぱり、TVシリーズ時点の彼の姿にもう一度立ち返る必要があります。
彼は、光だけを信じる人々に、そこに厳然と存在する闇を突き付けていた。
人間の中に入り混じる光と闇を暴いてみせていた。
光にも闇にも価値はないと、証明しようとしてくれていた。

ギャラクシーファイトで、私を恋におとした、このセリフに立ち返りましょう。
「光も闇も、正義も悪も、等しく同じ価値しかないことを証明したい」

そして小説のラスト。
「まったく、光が正義だなんて、誰が決めたんだ。」

元をただせば、始まりは、光への渇望だったかもしれない。しかしそれは叶えられることはなかった。
挫折、断絶、絶望、狂乱、そして虚無へ至るしかなかった。
でも、彼は、そこで立ち止まらなかった。
自らがたどりついた結論を、自らの手で実験し、証明し、見せつけてやろうと、わかってもらおうと、ある意味では、努力しつづけたんです。

光って、そんなに大事なのか?
そんなに絶対的なものなのか?
それだけが唯一の正解なのか?
光も闇も単なる価値観の一つに過ぎないんじゃないのか?
なぜそんなにも光を、光だけを信じられるのだ?
自分たちが信じている光とは、いったい何なのか、わかっているのか?自分で考えたことはあるか?
なぜここに存在する闇に蓋をするのだ?なぜ真実を見ないのだ?
人間の本質は混沌だというのに、なぜ己自身をきちんと見ない?

彼は、光に向かって、問いかけ続けた。
自らが感じた違和感を投げかけ続けた。
そうして、光を絶対だと信じて疑わない人々の価値観に、ヒビを入れようとし続けた。
光の世界に、闇の存在を、その先にある虚無を、宇宙の始まりの混沌を思い知らせるために、実験をし続けた。

挫折と絶望に立ち止まることなく、彼は、光とは何なのかを、問い続けたんです。
そしてその、光を信じる人々への追及の手を決して緩めない姿こそが、最初に私が恋した彼でした。

だから、私もそれをやらなくちゃならない。
私が憧れた彼の姿に、近づくために。
彼の隣にいるのに、ふさわしくあるために。
絶望に蹲っている場合なんかじゃない。
彼の意志を継いで、光とはなんなのだ?と、問い続けなければならないんです。
(多次元宇宙のどこかにいるって小説に書いてあったので、遺志とはあえて書きません)

もしかしたらこれは、光が理解できない者こそ、やらなければならないことなのかもしれません。
光なんて自明じゃん、なんて思うような人では、違和感を投げかけ続けることなどできませんからね。
光を問い続けることは、光を理解できない者に与えられた使命なんだ、と思うのは、大げさでしょうか。

彼と同じように、私の中にある光への渇望も、忘れることはあっても、消えてくれることはないでしょう。
そして時にはやっぱり、自分が生きているのは光の国なのだ、同じ景色を見ている人など簡単には見つからないのだという現実に、絶望を味わう日もあるでしょう。
でも、それでいい。自分を苛む渇望も、自分を叩き落す絶望も、肯定したい。
だって、それがなくなったら、光への追及も止まってしまうでしょうから。その満たされない渇望を、絶望を糧にして、彼は問い続けた。私もそれに倣いたいと思います。

彼の意志を継いで、光を問い続ける。
それが自分の生きる意味なのだと、わかりました。

小説や、文章を書いています。
それで食べていきたいかどうかは別にして、とにかく書きたい、書かなければと思っています。
それは、光を問うためなのだと、やっとわかりました。
小説の最終章からR/B映画、タイガTVシリーズそして映画にかけて、彼がさまざまな事件を引き起こしては、闇を暴き、光にヒビを入れたのと同じように。
私はそれを、書くことでやらなければならない。
彼が書物や理論で光に迫ろうとしたように、私は言葉を武器に、光に迫ってみせる。

元々、なんで書くのかという問いには、自分が見ている世界の形を人々の眼前に叩きつけるため、みたいなことを思っていたのですが、
その漠然とした使命感が、彼の存在によって、はっきりとした輪郭を持ちました。
そもそもこの、トレギアさんガチ恋怪文書シリーズも、そういう使命感で書いてる面もありますし。
そう、やっぱりこれは、使命と呼んでいいですよね。
これこそが、これからを生きる意味になるのですから。

いや、何も、書くことだけではないですね。
日常のふとした会話で。仕事で所属している組織のやることに関して。
光を問い続けることは、どこででもできます。というより、生活のあらゆる場面で、やっていかなければならないことでもあります。
何しろ、光が当たり前だと思っている人間には気づかないことに、気づけるのですから。気づいている人間からまず、言っていかなければ。

そう考えると、光が理解できないことは、光の世界に違和感を唱えるための才能、と捉えることも、できるかもしれません。
彼も、私も、きっと、その才能を授かったのだ、なんて考えるのは、都合がよすぎるでしょうか。
でも、それくらいの気持ちの大きさで、生きていこうと思います。


……以上です、書けました、まとまりました。
トレギアさんのことを考えて、苦しんで、でも、生きる意味にたどりつけた。
これを恋と呼ばずになんと言えと。これは私なりの、人生をかけた恋と、そうはっきりと呼びたいと思います。
彼からもらった使命で、これからを生きていきたいと思います。

ここまでお読みいただいた方がいらっしゃいましたら、本当にありがとうございました。

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