刀ステ「无伝 夕紅の士 -大坂夏の陣-」感想&考察


美しく爽やかな演練

なんだろう、こんなにも爽やかな後味なのは。
これまでの刀ステの、何が起こってるのー!?とか、どうして…とか、そんな感じではなくて、ただただ、美しい儀式を見届けた、って感じです。
高台院は、歴史を変えることを望んではいなかった。ただ、豊臣という物語の終わりを見届けたかった。
だから私たちも、高台院と一緒に、史実通りに終わっていく豊臣の物語を、しっかりと見届けた…そんな感覚です。それこそ私たちは、豊臣の物語を冬の陣から見ていたのだから。その物語の終わりを、ただ歴史のあるがままに、見届けた。
この時間軸は放棄されるし、真田十勇士も高台院さえも朧、そんなのはわかってる。それでも、この終わりを見届けられてよかったと思ったし、まさに高台院が望んだのもこれなんだと腑に落ちました。

骨喰役の三津谷くんが、パンフレットの対談で、末満さんらしくないと思った、って言ってて。これはいつもの末満さんの、二転三転からの衝撃、とは違って直球だな、って。末満氏の地獄をたっぷり味わえると有名なTRUMPシリーズも何作もやってるみっちゃんがそう言うって、いったいどんなものに仕上がっているんだろう、と思いましたけど、観たらわかりました。ああこういうことか、と。
刀剣男士と真田十勇士が、互いの本能を思うままにぶつけ合う。ただし、刀剣男士側が必ず勝たなくてはならない。そしてその通りになった。
言うなれば、いい意味で先の読める、ヒーロー番組の様式美のような。ヒーローも悪役も、互いに魅力を出し切った上で、最後にはヒーローが勝つ。そんなすがすがしい物語でした。

思い返してみれば、1幕後半の三日月と高台院の会話が、この物語のすべてでしたね。
高台院の望みは見届けることだけだから、それが終わったら斬ってほしいと。
そしてその代わりに三日月は、真田十勇士たちに戦わせてやってくれ、と。
ここで交わした互いの約束を、いつもの末満作品みたいに裏切っていくのではなく、2幕で本当にまっすぐに気持ちよく果たしあった。
この意味でもやはり、決まっている結末に向かうための手順を一つずつ美しく積み上げていった、儀式、だったのだと思います。

真田十勇士の描写がね、もうこれでもかってぐらい刀剣男士に寄せてるんですよね。「本丸」、「買い出し」、「厨当番」、「主」。買い出しも厨当番も、これまでの刀ステで描かれている場面。
だからこれは、時間遡行軍や朧との戦いというよりも、
「真田丸」と名のついた本丸との演練だったのではないか、と思います。
ミュ本丸との大演練は残念ながら延期になってしまっているけど、真田丸もまた、ステ本丸、ミュ本丸と並び立つ、ひとつのかっこいい「本丸」で。
勝敗は覆せないけれど、そんなことが些末に思えるほどに、本当に、本当にみんなかっこよかったんだ……!!!!


「見届ける」ことの意味

高台院が願ったのは、ただ「見届ける」だけ。当初は真田十勇士に戦いを禁じるほどに、滅びゆく豊臣の現状への干渉はこれっぽっちも望んでいなかった。
この、「ただ見届けたいだけ」とか、「ただそこにいたいだけ」っていう、この感情を、ちゃんと、丁寧に丁寧にすくい上げてくれるところが、好きです。
ただいるだけじゃん、という声もありましょうが、それって大変なことなんですよ。すごいことなんですよ。

個人の感想なので派手に脱線しますけども。
事実を変えたいわけじゃなくて、ただ「そこにいたい」「関わっていたい」という願いって、本当に切実なんですよ。
これ、近年の特撮…特に戦隊の女性戦士とか、あと珍しいところではウルトラマンの敵にいたりもするんですけど…そういうところでスポットライトが当たるようになってきた感情で。自分これ大好きなんです。
ヒーロー側の願いとしては、勝ちたいとか、世界平和になってほしいとか、もちろんある。でも、自分が重視したいのは、これまで戦いに参加できなかった女の子たちの、私も一緒に戦いたい!っていう思いで。最近ではもうその段階すら通り越して、男女問わずとにかくみんなで一緒に!ってのを重視するような流れも生まれつつあります。
自分が参加できないまま、はい、ヒーローたちのおかげで世界平和になりましたよーもう安心ですよーって言われても、なんか違う。それじゃ嬉しくないんです。極論、自分が関われないまま勝ったのと、自分が関わって負けたのでは、後者の方がいいと思うくらい。

だから高台院の願いもめちゃくちゃグッと来たというか、そう、そうだよね、それは絶対後悔してるしやり遂げたいよね!!って共感して応援してました。
彼女は、京都にいる「他者」としてではなく、大坂にいる「当事者」として、大坂の陣に関わりたかった…ということなんですよね。

これまでの刀ステで主に描かれてきた戦国の世は、男の論理の物語が多かった。天下が欲しい、っていう義伝や天伝なんてまさに、ごりごりの男の論理じゃないですか。俗説でよく言う、男は結果を求め女は共感を求める、ってやつで言うと、もうわかりやすい天下というトロフィーをめぐる物語。
そこに、ガラシャの物語である科白劇・綺伝や、この无伝を持ってきてくれるんですよね!末満氏へもう信頼しかない。
ガラシャが望んでいたのも、高台院とちょっと似てますよね。死にたくない、じゃない。ただその死に方に悔いがあった。死ぬのは構わない、ただ、鬼に殺されたかった。
そして高台院。滅びを止めたいのではなく、自分が目を背けてしまったというその後悔を、どうにかしたかった。
ガラシャも高台院も、結果を変えたいわけじゃないんです。生き延びたかった義輝や、仲間の死を変えたかった龍馬とは違う。結果は同じでいい、ただ、そこに至るまでのプロセスを、今一度、自分の納得のいく方法でやり直したかった。この共通項が、なんというか、すごく雑な言葉になっちゃいますけど、結果は結果として受け入れる覚悟を持つ「女性の強さ」みたいなのを表してる気がして、好きです。

「もののこころをそらにかえす」という、美しいことのは。三日月が、割に合わぬ仕事の報酬として受け取ったもの。
これを聞いて、刀解……って思ったの、きっと自分だけじゃないはず。
ここにいる高台院は人ではなく、真田十勇士と同じく「朧」のようなもので。刀剣男士や十勇士との違いは、語り継がれた物語ではなく、史実で後悔を抱えた高台院自身の心を拠り所としていること、でしょうか。それでも、人々に寄せられたこころを拠り所とする刀剣男士と同じく、「こころによって生まれた存在」であることには変わりない。
だから、そのこころをそらにかえす、ということは、刀剣男士でいうところの刀解にあたるのではないか、と。その身に込められていたこころを、空に解き放つことで、その身体は維持できなくなるのではないでしょうか。
空に浮かぶ月に心が宿る、という話を虚伝のときにしていましたけど、月という「もの」に思いを込めるのとは違って、「からっぽ」の意味も持つ「そら」に返すと、それは身体から解き放つ意味になる、ということだと思いました。
自らがどういう存在かよく理解しているこの高台院は、まさにこの刀解に似た手続きこそが、自分自身が終わるための方法なのだ…ということも理解していて、こう言ったのではないかな、と思います。

三日月を見た高台院、「思った通り」と言っていましたけど、そりゃあそうなんですよね。だって、高台院を含む歴代の主たちが込めたこころによって、今の人の身の三日月宗近があるのですから。高台院自身の思いやイメージも、今の三日月宗近に反映されているのですから。


秀頼様の成長と……

天伝を経た秀頼が、いったいどうなっているのか楽しみでしたが、ああ、そうなるか…!と。
刀剣男士たちは歴史の異物なので、その時代を離れれば人々の記憶からは消える。これが原則なので、この秀頼は、天伝と同一人物でありながらも、天伝の記憶はない、はず。
(黒田様は調査して書き残していたので例外)
でも、刀剣男士たちと会った記憶はなくても、「自分が秀吉の子である」という確信だけは、しっかりと残ったんでしょうね。
これ天伝のときからずっと言ってますけど、遺伝子的な意味の実子、じゃなくて、同じ空気を受け継ぐ者である、という意味での「子」なのがめちゃくちゃ好き…。なんというか、刀剣男士の兄弟設定もそうなんですけど、この、家族というのは血のつながりだけのことを言うのではない、って感じが。今回も高台院が秀頼のもう一人の母として描かれていたし、そう、こういうのが好きなんですよ…仮に秀頼が遺伝子的には秀吉の血を継いでいなくても、れっきとした「子」なんですよ!

で。
天伝のときには、秀頼にとって「天下」とは、「手を伸ばすもの」だったと思うんです。かつて父のものであったそれを手に入れれば、少しでも自分が何者であるかの答えに近づけるのではないか、父の子であることを証明できるのではないか、と思っていた。つまり、「天下」が、自分を証すための「手段」だったんですよね。
それがこの无伝では、自分は父の子であるという確信があるからこそ、じゃあその父のものだった天下も当然自分のものであるべき、みたいになっちゃったんでしょうね。手を伸ばすものではなく、現に今、この手中にあるべきもの。無理もないというか、そりゃあんだけ強く確信したらそりゃそうなるよね、と思いました。
結局、秀頼は天下を手にすることはできませんでしたが、迷いながら天下に手を伸ばしていた頃よりも、確信をもって天下を手中に収めようとしている夏の陣の方が、なんというか、秀頼様が幸せそうに見えました。英雄ではないと名乗りながらも堂々と振る舞っていて、かっこよかった。
……ってこれ、書きながら気づいたんですが、真田十勇士がかっこいいのと同じ理屈じゃないですか。勝つことはできなくても、全力で戦う。かっこいいってのは、勝つことじゃなくて、迷いなく戦うそのプロセスのこと。その点で、本能のままに戦った十勇士も、天下は自分のものであると確信をもって戦い抜いた秀頼様も、かっこいいんです!

そして秀忠様もかっこよかった…。
秀頼様が口にする「天下」という言葉は、どこか実態がなくて、つかみどころのないもの。
でも秀忠様の口からは「この国」「日ノ本」という言葉が出てくる。
「天下」って言うとなんだか、空のどこかにぽっかりと浮かぶ城のようなイメージです。その城を手に入れることが、天下を取る、みたいな。でもそれは、ぼやっとした概念であって、実体のあるものではないんですよね。
一方、「日ノ本」っていうと、地図が浮かんできます。日本の国土、その大地そのものを指しているイメージ。そして、そこに生きる人々のことも。なんというか、「日ノ本」って言われると、ちゃんとこの大地と、そこに文字通り地に足をつけて生きている人々の姿が思い浮かぶんです。きっとこの二人のやりとりが、そういう印象を与えるように組み立てられている。

秀頼様は天伝の記憶はない、ってさっき書きましたけど、そう、たぶん、天伝で知らされた、自らの敗れ去る未来のことも、一度忘れているはず。
でも、この秀忠様との会話で、秀頼様は自らの敗北を悟ったのではないでしょうか。阿形吽形のアプローチがなくても、この会話によって、敗北を悟った…いや、無意識に天伝で言われたことを思い出した、なのかもしれませんが。

まあこれも、秀忠と引き合わせたのは高台院で、その高台院をここに呼んだのは阿形吽形で…と考えると、まあやっぱり遡行軍の介入のせいではあるんですが。
いや、でも、ここで大事にしたいのは、遡行軍よりもやっぱり高台院の意図でしょう。
繰り返しになりますが、高台院は結末を変えることを望んではいなかった。それどころか、秀頼に器の違いを悟らせることで、史実通りに豊臣が終わるよう、アシストしてさえいたわけなんですね…。
自分の存在によって豊臣の終わりが変わるようなことがあってはならない、と思っての行動だったのでしょうか。だとしたらそれは、歴史を正史のままに保たねばという義務感からではなくて、豊臣の終わりを見届けるという、自らの願いを叶えるため、ですよね…。見届けるためには、ちゃんと終わってもらわなきゃならないんですから。
うん、やっぱり刀ステだなあ。「魔王の命運を果つる戦い」から始まった、これぞまさに刀ステ。特命調査の放棄世界もですけど、「ちゃんとこの手で終わらせなくちゃいけない」というのが命題になる。


気になる大千鳥

真田のものであるという刀の時代の縁と、共に政府から遣わされたという刀剣男士となってからの縁、この二つで強く結ばれた大千鳥十文字槍と泛塵が尊かった……文久土佐の特命組にも沼ったので、自分このパターン好きなんですね…元の縁だけでなく、人の身となってからもまた縁を続けていく。自分の意志がない時代に結ばれた縁を、自らが意志と身体をもつようになってからも、それを嫌ったり終わらせたりせずに、好ましいと受け入れて続けている、ってのが、いいなあ…って。
大千鳥が囚われていた泛塵と再会を果たしたとき、槍を立てて持つじゃないですか。それがね、泛塵を周りからかばおうとしてるように見えて…互いに本当に大事なんだな、って…

で。泛塵が大千鳥に信繁役をさせたのは、自らが山に置いていかれて使われていない一方、大千鳥は実際に大坂の陣で使われたから…だけではなく、
大千鳥が巴形薙刀や静形薙刀のように武器の形の集合体であり、逸話の強さでいえば十勇士と変わらないから…
もし泛塵が信繁役であれば気づかなかっただろうと小助に言われてたけど、その、作戦の成功確率の高い方よりも、泛塵は、大千鳥に物語を食らわせる方を優先した、ってことですよね。
やっぱりそれほどまでに、刀剣男士にとって物語とは重要なもの。

でも、なんか、大千鳥十文字槍が、堂々としすぎてて怖い。
自分が信繁に使われたって、講談などでしか言われてないってこと…もしかして、無自覚…?
日の本一の兵が使った日の本一の槍、って臆面なく言うけど、いや、この本丸には、日本号がいるのよ…「日ノ本一の槍」は一般的にはそっちなんよ…
そう、十勇士に対して、お前たちの強さは所詮信繁の借り物だ、みたいなこと言い出して。でも、それはお前もだろって言い返されて、全く気にしてない強い感じで。強いのか無自覚なのか…わからないから、不気味。
ゲームの回想でもそんな感じを出してましたけど、ここまではっきり描かれるとやっぱり、自分が集合体だとは思っていないんでしょうかね。
結局、十勇士の物語を食らってもらう、という泛塵の意図も、直接は伝えてないですし。自分に物語が足りていないとは、気づいていないんでしょう。……この先、大丈夫なんでしょうか。


士の本能

刀剣男士に歴史を守る「本能」があるように、十勇士にも豊臣のために戦いたいという「本能」がある。
彼らに戦うなと言うのは、刀剣男士が主から歴史改変せよと命じられるのと同じ…
だから、彼らに戦わせてやってくれ、と三日月は高台院に頼んでくれた。

ここの二人の会話も好きなんですけど、そのあとに出てくる真田十勇士たちが、戦いを許されたことが本当に嬉しそうで。1幕終わりに刀剣男士たちと向かい合って叫ぶところがめっちゃくちゃ格好良くて。
見届ける話のところと重なりますけど、この、「やりたいことがある!だからそれをやりたい!」っていうのも、近年の創作で語られるようになってきた一つのテーマなのかな、と思っています。
なんだろう、今って、自由な時代になってきたじゃないですか。極端な例を挙げれば、女性はお茶汲みからの寿退社、っていう時代じゃなくて、自分でキャリアを築ける時代になった。でもだからといって、それが簡単に実現するかって言われるとそういうわけでもなくて。昔とは違って、やりたいことをやる前から諦めなくちゃいけないほど縛りが厳しいわけではない、やろうと思えばやれる環境ではある、けど、それでもまだまだハードルは高い…みたいな、そんな過渡期にある時代ですよね。
だからこそ、「やりたいことをやりたいんだ!」っていう思いを貫こうとする真田十勇士がすごくすごくかっこよく映りました。

でも、ここでも一つ気になることが。
今回の真田十勇士は、刀剣男士と同じようなもの、と考えていいんですよね。無なる逸話ではあるけれど、逸話から顕現したという点では同じ。
で、本能に反する命令を下されるのは、彼らにとっては苦痛である。印象的なのが、筧十蔵が酒場で悪酔いした、と鶴丸に介抱されるシーン。いや、なんかこれ、悪酔い、で片づけてしまっていいのか?と引っかかっていて…。
もしかしてなんですけど、本能に反する命令に耐えられなくなると、あんなふうに暴れ出してしまう…ありていにいうと、狂ってしまう、のではないか、と思って。
本来、刀剣男士や真田十勇士に備わっている本能とは、それほどまでに強固なものなんだろうと思います。だから、それに反するということは、かなりのイレギュラーというか、本来ありえない、あってはならないことなんだと思うんですよね…。
ちょっとこのあたり後ほどまた考察します。

あと、また派手に脱線しますけど、やっぱり末満氏のTRUMPシリーズっぽい要素を感じ取ってしまうんですよ。そもそも刀ステ見てみようと思ったきっかけがTRUMPの人じゃん!!なので。ご存じない方はスルーしてくださいね。(今ならBlu-ray一挙発売になっててお安くお求めいただけます!!)
TRUMPに出てくる「繭期」という用語がありまして、これは吸血種=ヴァンプにおける思春期のようなもの、なんですね。ただし人間のそれとは比べ物にならないくらいにひどく、幻聴や幻覚などを含む著しい情緒不安定に陥る、というしろものでして。まあそんな状態から悲劇が生まれないわけがないよね!!!気が狂った少年少女を集めた全寮制の学校なんてね、もう、悲劇生産工場でしかない!!!
で。どこにそんな要素があったかって、真田十勇士ですよ。いや、小助とか才蔵とか佐助とか、わりとまともな人もいましたけど。鎌之助とか、海野六郎とか、あのへんのぶっとんだ人たち見てると、その「繭期」の状態にいる子どもたちを思い出してしまって…。
共通項を見出そうとするなら、自分ではどうしようもない情緒、でしょうか。繭期の少年少女たちも、自分でも自分の感情に戸惑い、制御できずに振り回されているんですね。なんだかそれが、豊臣を守るために戦いたい、という本能に振り回されているようにも見える十勇士と重なって…。
あとはほんとに、自分の意志ではなく繭期の症状として、妄想の中に住んでて妄言ばかり言っていたり、すぐ殺しちまおうぜとか言いだしたり、ギャグ百連発という謎の持ち芸があったり、そういうぶっとんだ子たちばっかりなんですね。いやほんとに鎌坊みたいなグレコってキャラがいるんですよ…あと筧十蔵役の久保田さんと根津甚八役の星璃くんは、過去に繭期の少年を演じてますね…
この、なんていうんでしょうかね、整理されていないままにお出しされる感情表現というか、理由なんてないけどとにかくこういう感情なんだ!っていう、本人にさえわかっていないような激しい情緒、みたいなやつが好きですし、ああ末満さんだなあ、ってなります。俺は刀ステを観ていたはずなのになぜTRUMPを見せられているのだろうか(n回目)(科白劇あたりからずっと言ってる)


円環の中で

必ず自分たちが勝つから彼らに戦わせてやってくれ、と頼む三日月のシーンが好きだとさっき書きましたがね。
これ、仲間を信頼してるから、じゃない。仲間が絶対に勝つと信じているから、みたいな、いい話だなーみたいなことじゃなくて。
この物語を、何度も繰り返しているから、ですよね。
何度も繰り返してて、毎回勝ってきたから。だから今回も、よっぽどイレギュラーなことが起こらないかぎり(悲伝の時鳥のようなことが)、刀剣男士が勝つと、わかっているから…。
それで言うと高台院は円環に現れた新しい要素なのかもしれないけど、義輝を守ろうとした時鳥とは違って、彼女自身が現状を変えることを望んでいない以上、高台院の出現で勝敗が覆ることはない、と踏んだのだろうと思います。
かっこよく解釈すると、自分と仲間たちの強さへの自信の表れなんですけど、絶望的解釈をすると、高台院という新要素が現れてさえもこの円環の顛末は変わらない、と諦めの境地に入っちゃってるようにも見えます…。

あと、みっちゃんのばみちゃん!!!!
「高台院は俺が斬るべき『だった』」
「目を離すと三日月がいなくなるような気がする」
過去形で話すってことは、この物語をすでに一度経験している、ってことですよね。無自覚なのかもしれないけど。これから三日月の代わりに高台院を斬ろうと思うなら、「俺が斬るべきだ」になるはずであり。
そして、時系列では悲伝の前であるにもかかわらず、三日月がいなくなる未来を感じ取っている。
ここ、ばみちゃんだけじゃなくて、話を聞いている数珠丸の言動も参考になるなと思ってて。
わりとここの数珠丸は、そんなことあるはずがない、というようなニュアンスで「天下五剣の名を信じましょう」と言っているように見えて。
未来を察しているばみちゃんに対して、未来が見えていない数珠丸にとっては、骨喰の言動は、なんのこっちゃ、急に何を言い出すやら、というのが正直な反応なんだと思います。


如水なの???

黒田如水、何、遡行軍堕ちして生きてるんです????
如水は晩年~死んでから異形の姿になって生きるのに使っている名前、なのかな。
天伝で「如水も喜んでくれるかな」的なことを阿形吽形が言い出したとき、いや死んでるよ?どこに向かって言ってるんだ?過去か、それとも別時間軸か?とか考えてましたけどね、そのまんまだった。そこに、いた。
夏の陣について、十勇士だけでは足りなかった、だから三日月の元主である高台院を仕向けた、って言ってましたね。だからこれは冬の陣の直後ではなく、そのあと何回かループした後の別ルート。高台院がいない、真田十勇士だけの夏の陣も何回かやっている。

長谷部と戦うところ本当にすごかった、、、、
直近の長谷部の記憶は、慈伝で極めた姿の、模擬戦でのすごくスタイリッシュで落ち着いた動きなんですよね。もともと無駄のない動きだったけど、慈伝では模擬戦で殺意は控えめってこともあって、舞うように戦っていた。
それが、あの。序伝を思わせるような、なりふり構わない戦い方。まあでも、模擬戦である慈伝とは違って敵を斬る戦いだから、笑顔は今回の方が多かったですけどね。
しかもね、三日月は高台院の口から如水の名を聞いているけど、長谷部は、相手が誰だかわかってないまま戦ってるんですよね、、、、
だからこの戦い見ながらずっと、ダメだよ、戦わないで、あなたの大好きな人のお父さんだよ、って叫びたかった。
でも、戦わなくちゃいけないんですよね。ここで如水から、極になれ、というようなことを言われて、それが悲伝につながって、結果的に本丸は助かる、という流れなのでしょう。
天伝のときに、もうラスボス如水じゃん!!って思いましたけど、もしかしたらこの刀ステ本丸の物語において、如水と決着をつける役目を担っているのは、長谷部なのかな、と感じました。三日月と山姥切の物語ももちろん重要だけど、その二振りの物語軸とは別に、如水に立ち向かうという物語の軸においては、その筆頭は長谷部なのかな、と。

そう、なんか、如水は、敵って感じがしないんですよね。
「三日月宗近もお前たち刀剣男士も、そしてわれらも、みな同じものを探している」。
三日月が、この本丸を強くしたい、という意図で行動していたのと、全く同じ。長谷部を、強くなれ、と導こうとしている。
三日月も如水も、ステ本丸の刀剣男士たちを強くしようとしているんです。じゃあそれは、何のために? 二人は何を探しているのか……?


三日月は、大丈夫

そろそろ考察の核心に迫っていくんですが、どうしてもその前に挟みたい話があります。
今回の无伝で、あのはちゃめちゃにかっこよかった真田十勇士の活躍シーンや、2周連続の大回転殺陣(初見時正気を疑った、三日月もやばいけど二周してる遡行軍の皆さんもやべえよ!!)を抑えて、自分がいちばん好きなシーンの話。
それは、本丸のみんなの衣装が、ずらーっと並べられたシーン。
悲伝の直前に顕現したと思われる小烏丸、悲伝と慈伝の間に顕現した南泉、慈伝以降に出会った特命調査組を除く全員が、そこに、いる。
またそして、三日月と鶴丸が語る日常も、ああ、そうだよなあ、ここの本丸の子たちならそんなことしてそうだなあ、ってのばっかりで。全部がステの役者さんの振る舞いで脳内再生されて。
山伏のバーベルとか、あージョ伝と慈伝で持ってたあれか、ってなりますし、太郎と次郎の長唄の稽古もなるほどあれかってなるし、大般若が五虎退をなぐさめてるのってこの本丸ならではって感じだし、陸奥守が爪を塗られてなんじゃあこりゃあ…↓ってへこんでるのも目に浮かぶ(ミュ陸奥守ならはしゃいでそう、という個体差も感じる)……挙げてたらきりがなくて。これまでの刀ステの歴史があのシーンに詰まってて…

そして、この圧倒的な画を見て、確信しました。
三日月は、どんなに円環を繰り返したとしても、狂うことはない、って。
ただ、未来をつなげることだけを、本丸のみんなの未来のことだけを、思い続けてくれる、って。

鶴丸の質問、「戦いが永遠に続くなら、どうしたら狂わずにいられる?」これを聞いた瞬間、うあああああああ末満うううううう!!!!!ってなりまして。
しつこいようですけど、自分が刀ステ見るきっかけが末満氏のTRUMPシリーズで、なので自分のステ考察はかなりTRUMPに影響を受けているわけなんですけども、もう、こんなどんぴしゃなことある????
だって、TRUMPシリーズがまさに、「永遠の命を得て狂った少年の話」なんですよ!?!?
永遠って、いいことばかりじゃない。むしろ、その終わらない生をいかに狂わずに続けるか、という戦いをするはめになる。
(そういや最近退場した仮面ライダーの悪役もそんなこと言ってましたよ…長生きしすぎて暇だったから悪事に手を染めた的な…)

まずTRUMPシリーズの話を少しすると、永遠の命を後天的に得てしまった人物が2人いて。厳密にいうと、2人のうち先に不老不死となってしまっていた(この言い方からしてどんな地獄が展開されていたかお察しください)方が、もう一人を巻き込んだというか、道連れにしたんですけど…
で、この2人の性格がものすごく違うんです。1人目は、どうやったら他人を不老不死にして自分の道連れにできるかって考えて、非人道的な実験とかしちゃう人で。でもその実験の被害者となった2人目は、あいつ(1人目)のようにはならない、あいつのような狂気には堕ちない、ってきっぱり言い切っているんです。
この2人がどうしてこうも違うのか。自分の解釈としては、「友達や家族がいたことがあるか」なんですよ…。
1人目は、不老不死になる前からもともと孤独で。本当の友達なんていたことがなくて。最初からずっと、この世のすべてを信用してない、みたいなスタンスなんですね。
一方の2人目は、確かに不老不死となった今は孤独だけども、その前には優しい両親がいたことがうかがい知れたり、実験されている最中でさえも、これが実験だと気づく前は、親友がいたり孤独な子に手を差し伸べたりと、温かい家族や友達に囲まれて生きていたんです。今も友達いるし(幻覚だけど)。

ともに過ごした仲間がいて、帰る場所がある(あった)。
それがあれば、狂ってしまうことはないのだろう、と思います。

だから。
鶴丸に問われて、即座に本丸のみんなのことを答えられる三日月は、狂わない側の人。
要は、TRUMPで言うなら2人目に相当するキャラクターなのではないか、と思ったわけです。
どんなに長い円環になろうとも、三日月はきっと大丈夫。抜け出せるかどうかはまだわからないけど、少なくとも、その途中で折れてしまうようなことはない。どんなに長くかかっても、本丸の仲間を支えに、正気でいてくれる。そしてそのみんなの未来だけを、見つめていてくれる。そう確信できました。


狂ったのはだれか

三日月は、狂わない。大丈夫。TRUMPで言ったら2人目。
それなら、TRUMPで言う1人目…いわば、主犯、のようなキャラクターは誰なんだろう?

もう候補は一振りしかいない。
山姥切国広、ですよね。

自分、過去の考察でも維伝のときからずーっと、まんばちゃん真犯人説を唱えているんですが、
このTRUMPにおける1人目2人目に、三日月とまんばちゃんがぴたっと当てはまってしまうことに気づいたとき、はあああああああやっぱりか!!!!!ってなりました(あくまで個人の考察です)。

天伝の考察で、太閤が言いかけたセリフ「だって山姥切国広は、歴史をはじめから…」の続きは、「歴史をはじめから、やり直そうとしている」なのでは…?と思いましたが、自分の中では今回、さらにこの説の可能性が高まりました。
天伝考察の繰り返しになるんですが、たぶん、「絡まった糸がもうほどけないなら、新たな1本の糸を紡ぐ方が手っ取り早い」んですよ。

それに加えて、TRUMPとの符合を意識するならば、旅に出たまんばちゃんは、一人、ですよね。狂うための条件…孤独、を満たしてしまっている。円環のなかでずっと仲間とともにいる三日月とは違う。
仮に時間遡行軍と行動をともにしていたとしても、あいつら基本、言葉しゃべれないし…友にはなりえない。
もしかしたら、旅の序盤は順調だったかもしれない。でも、本丸を離れ、一人で旅を続けるうちに、三日月を失った心の隙間に入り込んだ孤独が、ある日狂気に変わる…そんなことがあってもおかしくないんじゃないでしょうか?

じゃあ、刀剣男士が狂うってどういうことか、というと。
それは、「歴史を守るという本能から逸脱すること」なのではないかと思っていて。
本能の話のところで書きましたけど、そう、だから、本来は、本能に反する命令をされるだけでも苦痛で。筧十蔵が悪酔い?していたように、刀剣男士も、歴史を守れないとなったら、どうなってしまうかわかったもんじゃない、と感じています。
そこへ来てこのまんばちゃんですよ。彼は、本能に反する命令をされたわけではなく、むしろ自ら進んで、その本能を逸脱しようとしているわけですよ。
それってもはや、正常な刀剣男士とは呼べないのでは…?と思ってしまっていて。命じられることさえ苦痛なことを、自ら望んでやるって、それもう、正気ではないのでは…?と。

と、いうことで、改めて整理してみたいと思います、まんばちゃん真犯人説。
まんばちゃんのループ目的は、歴史をなんどもはじめからやり直して、三日月を失わないルートを構築すること。さながら維伝の龍馬です。
実はループを引き起こしているのはまんばちゃんで、三日月はあくまで、それにはっきり気づいているだけの人。
三日月が結いの目になってしまったのも、まんばちゃんが何度もループを繰り返したせい。
(三日月だと「円環」って言いたくなるけど、まんばちゃんだとなぜか「ループ」って言いたくなるのはなぜ)

でもこう考えると、ここで一つ問題が発生しますね。
まんばちゃんがループしなければ三日月を失わなくて済むなら、まんばちゃんがループを始める動機はないじゃん、と。
三日月を失わないためにループするって言ってるのに、三日月を失う原因がループにあるって、なんか、卵が先か鶏が先かみたいでよくわからん!!ってなります。

これを解決する方法として、「当初はまんばちゃんのループ目的は三日月以外にあった」と考えます。
だって、いくらでも考えられるじゃないですか。義伝で大倶利伽羅もしくは鶴丸を失ったから。序伝で山伏が折れたから。悲伝で本丸が助からなかったから(長谷部が極でないとおそらく助からないんだろうな…と今回の如水とのやり取り見て思いました)。

なので、最初のまんばちゃんのループ目的は、三日月に限らず「誰も失わないルートを構築する」だったのだと思います。
それを何度も繰り返すうちに、大倶利伽羅、鶴丸、山伏を失う未来は回避できた。何度も繰り返しているから、虚伝が2つあったり、個体差が発生したりする。
今回の天伝と无伝も、別の周の物語であって直接つながっていない、というのと同じように、おそらくこれまでの作品も、それぞれ違う周の出来事を見せられている。虚伝の初演再演ももちろん周の違い。

しかしそうやって繰り返しているうちに、今度は新たに、三日月が結いの目となり悲伝で本丸を去る、という事態が発生してしまったのです。
大倶利伽羅や山伏が助かり、せっかくうまく行き始めていたまんばちゃんによる理想世界は、今度は三日月を失うという大きな悲劇を抱えることになる。
まんばちゃんはそれにも耐えられず、結局、完璧なまんばちゃんの理想ルートは構築されない。今もまだ。

今回、天伝でのまんばちゃんの、失う覚悟はできている、のセリフが引用されてましたが、これもすごく意味深だと思っていて。
天伝考察でも同じことを書いていますが、失う覚悟が、できていなかったんじゃないのか????と思っています。だから本丸に帰らずループを始めた。
あるいは、まんばちゃんが本当の意味で「失う覚悟」を決めることができたなら、バッドルートである1周目を受け入れることができて、ループは終わるのかもしれないけれど。

というわけで、三日月だけが円環を巡っているのではなくて、実際はステ本丸全体がループに陥ってるんじゃないか、と思うわけです。
そう、他の誰でもない、この本丸の初期刀であるまんばちゃんだからこそ、この本丸の歴史を、本丸立ち上げ当初からやり直すことができるんですよ。だから、まんばちゃんがループするということは、それすなわち、ステ本丸丸ごとループしているのと同義になる。

まあこの、ステ本丸ループの範囲についても、いろいろと考えられるんですが…
ここはあんまり根拠はないんですけど、自分は、慈伝までの第1章が、まんばちゃんが何度もやり直している部分なのではないか、と思っています。そこまでずっと出演してたってのもあるし、三日月との決着を描いた悲伝ではなく、まんばちゃんの旅立ちを描いた慈伝までが第1章とされているのが、どうにも気になって。
そして維伝は、慈伝と直接つながってはいない未来の話なのではないか、と。
序伝~慈伝の時間軸は、まんばちゃんによってその中を何度も回っている。しかし一方で、まんばちゃんが帰ってこないねえ、と言いながら続いている時間軸もどこか別のところにあって、おそらくそれはいわゆる1周目、オリジナルとでも呼ぶべき時間軸で。おそらく天伝の太閤もそこから来た。そのオリジナルの時間軸では、慈伝のあと、まんばちゃんは修行中のまま、文久土佐や慶長熊本の任務に出向いている。もしかしたらこのまま慶応甲府にも行くかもしれませんね。
まんばちゃんがいないままでも、なんとか本丸は正常に続いているはずです。悲伝のとき、長谷部と不動が同時に修行に出ていましたよね。てことはこのステ本丸は、我々のゲーム本丸とはちょっとルールが違って、二振り同時に修行に行くこともできるようです。だからまんばちゃんが不在のままでも、別の男士を修行に行かせることもおそらくできる。
一方、まんばちゃんループ…オリジナルに対して言うならば、フェイクの時間軸では、まんばちゃんが納得いく結果になるまで何度もやり直している。
つまりまとめると、われわれが見ていた虚伝~慈伝は、まんばちゃんループによるフェイクの時間軸で。いや、もしかしたら虚伝初演だけオリジナルかもしれないと思ってはいるんですが…。そして維伝からは、虚伝初演とつながる?オリジナル時間軸の物語なのではないか、と。

如水のセリフ、「それは反復する過去か、過ぎ去りし未来か」。
反復する過去は、まんばちゃんが繰り返している序~慈のことで。
そして過ぎ去りし未来は、どこかにあるオリジナルの時間軸ですでに進んでいる維伝、綺伝の物語を指しているのでは…???


三日月は「結いの目」?

かなり飛躍した考察となりましたが、こうなってしまう原因はおそらく、三日月自身の意図が見えにくいから、なんですよね…。
今回は、本丸の仲間を大事に思っている、という面が強調されましたけど、いや、それは前からわかってるんです。改めて示されて感動したのは嘘じゃないけど、でも、考察的に新しい情報ではなくて。逆に、三日月は本当にただただ本丸のことを考えているんだ、純粋にそれだけなんだ、ということがわかりました。
一方のまんばちゃんは、「物語をオクレ」という、明確な意志を見せている。本丸に帰らない、という行動でも、その意志を示している。だからこそ、本当に何かを企んでいるのは、まんばちゃんの方ではないか?と思ってしまっていて。
天伝・无伝で大千鳥は、「三日月宗近、円環を巡り何を企んでいる」って言ってましたけど、どうも三日月を見てると、何かを「企んでいる」っていう感じがしないんですよね…。むしろ、何かの企みを阻止しようとしているようにさえ見える、というのはまあ私の強めの幻覚なのですが。
三日月は、自ら進んで結いの目になったのではなく、結いの目に「なってしまった」が正しいのでは…?と。

で、この「結いの目」についても考え直さねばなりません。
結論から言うと、「結いの目」というのは、ループを引き起こしている張本人のことではなく、単にループに気づいている人、なのではないか?と思っています。

ループに気づく条件としては、科白劇の黒田様(名前が一定しないのでまとめてこう呼びます)が、「別時間軸の自分がいること」と言っていました。あの孝高自身は刀剣男士に会ってはいないけれど、官兵衛の記憶が流れ込んできて、それで繰り返しに気づいた、と。
なのでこれまでも、鶴丸や骨喰は二振りいる=別時間軸を過ごしている自分がいるからループに気づいているんだろうな、というのはわかっていました。義伝での鶴丸の振る舞いや今回の鶴丸・ばみちゃんの言動も、「二振りいる=ループに気づいている」説の根拠となります。

でも、三日月は一振りしかいない。それなのにループを察して、円環の中にいるとわかっている。
ここでよく考えてみます。二振りいるならばループに気づく、はおそらく真でしょう。でもその逆、ループに気づいている子は必ず二振りいる、は必ずしも真ではないのでは?
黒田様は「別時間軸の自分がいる」と言ったわけであって、キャストによる二振り表現が必要とは言っていない。実際黒田様自身も山浦さんおひとりしか演じてないし。

じゃあ、キャスト変えなしで「別時間軸の自分がいる」って、どういうことを指すのか?
自分はこれ、「別時間軸で異なる顛末をたどったことがある」という意味だと解釈しました。

そして唐突に出てくる推しの話、大倶利伽羅。なんだか考察するときいつも出てきますね。天伝考察でも出張ってもらった記憶が。
義伝の最初、関ケ原に現れた伊達政宗を見て、そこに出陣していた刀剣男士たちは動揺します。燭台切も太鼓鐘も例外なく。だって伊達政宗が、かつての主が、そこにいたという史実はないから。
なのに伽羅ちゃんだけ、ふらふらっと進み出て、一言、「来たか」って言うんですよ……!!もうここ何度見ても、むしろ見返すたびによりぞわぞわする…!!
伽羅ちゃんはステでは猪野くんしか演じていない=キャストによる2振り表現はないのに、まるで繰り返しに気づいていて、そこに伊達政宗が来ることがわかっていたかのような…!!

なぜ伽羅ちゃんが繰り返しに気づいたのか。
それは、「別時間軸で折れたことがあるから」、なのではないでしょうか。これは義伝の物語からして、十分可能性のある話だと考えます。
さっきは「別時間軸で異なる顛末をたどったことがある」と書きましたが、日常のちょっとした差分は問題なくて、おそらく「折れる」あるいは「刀解される」というような、存在そのものにかかわる事項が問題となるのでしょう。
我々の目には触れていないけれど、まんばちゃんによるループの中のどこかの周に、伽羅ちゃんが折れた周がある。その後、まんばちゃんの根気強い繰り返しにより、伽羅ちゃんではなく鶴丸が折れる周や、あるいは義伝に近い、伽羅ちゃんも鶴丸も折れない周が構築されていく。
そうして伽羅ちゃんは、黒田様の言う「別時間軸の自分がいる」=「異なるタイミングで折れた自分がいる」状態になった。だからループに気づいた、というわけです。

あるいはこの、「別時間軸で折れたことがある」というのは、「慈伝までいるみんなとはリセット地点が違う」と言い換えることもできるかもしれません。
慈伝時点で生存しているみんなはおそらく、まんばちゃんループの中で、それぞれの顕現時点~慈伝までをやりきった後に、自分の顕現時点に戻されている。あるいは、まんばちゃんが一つの周を終えて本丸立ち上げ時に戻るたびに、そこにいたみんなは存在ごと消えてしまうのかもしれません。
でも、三日月や、折れた周での伽羅ちゃんは違う。慈伝の終わり、まんばちゃんループの終点までいることができずに、途中で離脱する。もしかしたらこれが、ループに気づく条件の一つ、ということも考えられなくはないと思います。

つまり「結いの目」についてまとめると、
悲伝では、三日月を起点とする円環が繰り返されているように見えていましたが、これはただ、三日月がこのタイミングで離脱するがために、そう見えていただけ、なのではないかと思います。


以上のようなことをなんとかお伝えしたくて描いた図。

画像1


われらは同じものを探している

さてと。いよいよ終盤です。
如水のセリフ、「三日月宗近もお前たち刀剣男士も、そしてわれらも、みな同じものを探している」。

ここまでお読みくださった方になら伝わると信じているんですが、これ、みんなが探しているものって、「つながる未来」ですよね…?

おそらく如水も、この時間軸がまんばちゃんループになってることはもう気づいているわけですよ。
如水の目的は歴史の調略ですけど、それをループ内のフェイク時間軸でやったって意味がないわけで。
歴史改変を望む如水と、歴史を守る刀剣男士である三日月宗近、そこの歴史改変に対するスタンスの違いはあれど、
「まんばちゃんループを抜け出して、オリジナル時間軸に戻り、未来に進みたい」という思いは、同じなのではないでしょうか…??

如水の歴史調略にとっても、正史に戻る、というのはかなり重要なのだと思われます。根拠は科白劇での義高のセリフ。
歴史改変をするには、まず歴史改変をして正史からの分岐ルートを作り(神の国を作ったように)、その上でそれを正史に侵略させる、って言ってたんです。
おそらく、分岐ルートを作る、ってところまではもうすでにできているんです。もしかしたら、まんばちゃんループさえも利用して、十勇士だけの大坂夏の陣、高台院を連れてきた夏の陣、といろんな分岐ルートを構築しているのかもしれない。
だからあとは、正史へと侵略するだけ、なんですよ。
そう考えるとやっぱり、悲伝で三日月が言っていた「未来につなげる」というのと同じく、未来につながる方法を如水も探しているのではないでしょうか。
さっきの図で言うと、慈伝までの時間軸と、維伝からの時間軸、そこの隙間をつなぐ何かを、三日月も如水も探している…のでは?
そのために如水も、この本丸が強く続いていくよう、長谷部に修行をうながしたのでは??

そして、ここからまた強めの幻覚ですが、まんばちゃんもおそらく、この仕組みをわかっている。最終的には、自分がループして構築した理想世界を、正史へと侵略させ、置き換えようとしているのだと思われます。
維伝で、黒いまんばちゃん略して黒んばちゃんは、染鶴に向かって「お前はこの物語に必要な刀だ」って言うじゃないですか。
これを勝手に深読みすると、染鶴が必要な刀、健鶴は不要な刀…?とも考えられるんですよね。
虚伝初演再演の登場順からして、染鶴がオリジナル時間軸、健鶴がループによるフェイク時間軸の個体だと仮定しましょう。
そうすると、あくまで最終目的は、染鶴のいるオリジナル時間軸を改変してハッピールートにすること。
義伝から察するに、健鶴の方が状況を改善していそうな感じもしますが、あくまでも健鶴は、周回中に生まれたフェイクで。そこでハッピーエンドを迎えても意味がない。
あくまでも正史、はじまりの時間軸における染鶴にハッピーエンドを迎えさせることが、最終目的なのではないでしょうか?


陽伝 結いの目の…?

悲伝の時鳥が鬼丸国綱になったバージョンが陽伝ってこと!?

桜の木が血を吸い、そこから顕現する演出。悲伝での時鳥と同じです。
そこから出てきたシルエットは鬼丸国綱。
うちの本丸には来てくれてないので(涙)どんな人かいまいちよく存じ上げないのですが、わかっていることは、この刀も足利にあったことがある、ということ。義輝の代にも足利家にあって、最後の将軍・義昭から織田を経て?豊臣に渡った、というのが通説のようですね。

つまり。
悲伝での時鳥は、いくつもの刀の集合体であり、名前を与えられるまでは自我を確立できていなかった。しかしその集合体の中に、鬼丸国綱が含まれていてもおかしくはない、というか、いるのでしょう。確実に。
で、さらに周回が進んだ結果?あの場面で顕現するのは、鵺のような集合体である時鳥ではなく、鬼丸国綱、というれっきとした名のある一振りの刀に置き換わった……ということ?
いや、でも、義輝はあくまで義輝であって、審神者ではないはずですが…それこそ、顕現が簡単ではないという話を天伝でやったばっかりだし…まあでもそれを言ったら時鳥すら出てこないはず、か…?

そして「陽」の字で連想するのは、「煤けた太陽」。
だから、めちゃくちゃ希望をもった解釈をすれば、陽伝は、周回中に悲伝と同じ時点で発生するまた別の物語であって、周回の中で生まれた新要素である鬼丸国綱と、煤けた太陽である山姥切国広が、ついに三日月を円環から救い出す話なんだ…!と、考えられなくもないのですが。

いやいやいや、そんなハッピーな話ある???末満氏だよ???
だって、そこで三日月が救われてしまったら、なんか、ここまで悲劇を積み重ねてきた意味…ってなりません?
そりゃあ三日月は救われてほしいけど、でも、それってつまり、本丸の歴史の改変に他ならないわけで。
なんというか、「どんな悲劇でも改変せずに受け入れる(受け入れさせる)」みたいなところにおいて、末満氏を信頼したいんですよね。ただのファンです。
こちとら、刀ミュ見て、バッドエンドっぽい三百年は好きだけどそれが救われちゃう葵咲のお話はハッピーすぎてなんかなあ、とか思っちゃうほどの(でも出陣してる男士は大好き)、筋金入りの悲劇大好きマンなので!!!

そんな自分が予想する陽伝の展開はずばり、
三日月は救われるけど、煤けた太陽=山姥切国広に関する闇が明らかになる、だと思っています。
陽伝の字は、山姥切の話をするぞ、という予告なのかな、と。


えー、こんな長く書くつもり当初はなくてですね。
最初の方に書いたとおり、ものすごくすがすがしく気持ちのいい物語だったので、いい意味で考察の突っ込みどころがないというか。三日月と高台院が約束をして、その通りに実行した、なんでしょうね、予告ホームランみたいなかっこよさを感じていたんです。で、円環とかに関する部分は、だいぶヒントが増えてきたこともあり、次は綺伝だし陽伝の示唆もあったので、もうおとなしく本編を待とう!という気持ちになっていたんですよね。
だから文章量としてはそこまで増えないと思っていたんですがね…。2万字弱なんだよな…。たぶん天伝のあとまた虚伝初演から円盤を一周して考察もぐもぐしてたせい…。維伝の話多めになってるのもそのせいですね。

いつも綺麗な終わり方がわからない。
ともあれ、ここまで読んでいただいた方、ありがとうございました!
追加キャストも発表された綺伝を楽しみに待ちましょう!


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