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刀ステ「心伝つけたり奇譚の走馬灯」

観劇済み前提、ネタバレありとなっておりますので、これから配信等ご覧になる方はくれぐれもご注意ください
















すごく個人的なことから書きます。
観劇した日、仕事も忙しいし体調もあんまりよくないしで、正直ベストコンディションで観れたとは思えてなくて。
両脇のお客さんが泣いてたのに、自分は全然泣かなくて。
うわ、メンタルが疲れてるよ、感受性が死んでるよ、と思ってちょっと落ち込んでたんです。

でも翌日の休みに、録画してたドラマで人が亡くなるシーンで普通に泣いてて。そこで急にアハ体験的に腑に落ちたんです。
ドラマの死は悲しい死。だけど心伝で描かれた死や別れは、ひとつも悲しくなんてないんだ、って。むしろ、山南さんが描き、沖田くんたちが実現した、みんなの夢が叶った世界なんだ、って。だから感動の涙はあっても、決して悲しい涙なんて流れない物語なんだ、って。

あれはハッピーエンドなんですよね。
「近藤さんを武士として死なせたい」その夢のために。
局長・近藤勇、いや、武士・近藤勇への愛がゆえに。
生き延びるものも死んだものも皆、同じ夢と愛のために、時間遡行軍の力を借りてまでも、全てを投げ打って。

本日、ライブビューイング見てきて、やっぱり終盤は泣きませんでした。だってどう見てもハッピーエンドなんですもん。じんわりあたたかくなって、良かったね夢が叶ったねおめでとうって祝福する気持ちと、お疲れ様みんなよくやったね、って労う気持ちとでいっぱいでした。

反対に、ライビュで泣いたのは、山南さんを沖田くんが斬る最初の場面でした。
だって、ここに究極の愛がぜんぶ詰まってたから。

この作品で描かれた愛を、自分なりにこう解釈しました。
「愛する人に、こうあってほしいと願うこと。それが必ずしも相手が望んでいることではないとしても」「そのために、自分が何か役に立ちたいと願い、全てを投げ出すこと」

近藤さんのことをみんなが愛していて。みんなが「近藤さんを武士にする」ことを夢見て。宴会の走馬灯で近藤にくってかかった土方のように、時には自分の理想を相手に押し付けるほどに、近藤さんに武士でいてほしい、にこだわる人たちだった。
山南はそのために、自らの命を投げ出して、斬れませんという沖田くんにすら無理を強いた。これこそが、愛だな、と。近藤さんが武士になれるなら、仲間に苦悩を背負わせようとも構わない、自分の命さえも捧げてしまえる、これなんですよね。
幸い沖田くんは、それを苦悩と受け取らずに、山南さんがスタートを切った夢を、最後までつなぐことができましたが。
そしてその夢を、誰かに一緒に見てほしくて、知って、共有してほしくて、あんな走馬灯を見せたんですよね。自分だって役に立ちたかった、と吐露して、役に立ったことを誰かに…いや、清光と安定に肯定してほしくて。

そう、なんというかこれは、山南さんと沖田くんだけじゃなく、みんながそれぞれの役割を果たしてリレーのようにタスキを繋いでいった結果なんですよね。さながらゴレンジャーハリケーンのような…(急にオタクが出る)(伝われ)

別ジャンルのオタクの話をするならば、同じ末満作品のヴェラキッカを思い出しました。みんなが1人を愛している物語。中心にいる人物に、周りの全員が愛の矢印を向けている、あのトチ狂った相関図の作品。
でもあれは、紐解いてみれば、今作で言う沖田に相当する、実行者1人だけが全てを背負っていました。でも今作は、みんながタスキをつないでる。試衛館のシーンに出てくるみんなが、同じ愛を持ってその身を捧げている。爽やかで、全員野球バージョンのヴェラキッカと言えなくもないですかね。ならばやっぱりハッピーエンドです。

実は、近藤勇自身は、劇中で一回も、「武士として死にたい」とは言わないんですよね。斬首になった歴史を知ってどうたら、という話も、山南らはするけども近藤さんはしない。直近では天伝の秀頼、无伝の高台院、綺伝のガラシャ、皆「自分がどうなりたいか」をはっきり口にしていたのに、近藤さんはただいつもどっしりとそこにいました。
でも、近藤さんがそれを口にしなくても、新選組のみんながそう望んだから。近藤さんはその愛を受け取った。自分がではなく、みんなが望んだ武士・近藤勇を実現し、みんなが捧げた全てに応えたんです。
そう、加州が報酬に望んだ「究極の愛され方」をしていたのは近藤さんなんだろうなと思いました。だからオーラスの殺陣は沖田くんではなく近藤さんなのだろうなと。
愛することは、いっそわがままなまでに相手に望み、願い、祈り、命じられずとも自分を投げ出すこと。愛されることは、その願いを受け取り、投げ出されたものを受け取って祈りに応えること。

だから愛とは、刀剣男士に寄せられる物語と同じなんですよね。愛こそ刀剣男士の力。それはまさしく、刀剣男士本人が望むと望まざるとに関わらず、人々が寄せた心、こうあってほしいと思い馳せた物語。愛する人にこうあってほしいと身勝手に願うのと同じ。
だからきっと、刀剣男士の「究極の愛され方」は、その寄せられた心を、物語を、願いを受け取って、それに応えること…で、いいのかな、と思います。


さてここからは歴史改変の考察。
といっても、今作はめちゃくちゃ丁寧に解説してくれてたので、今作が他にどう影響するか、の想像にすぎませんが。
小さな改変から始めれば刀剣男士に見つからない、ってのが肝ですよね。これまでの特命調査はいずれも、政局がひっくり返っていたり(維伝)神の国ができていたり(綺伝)と、一気に大規模な改変がなされていたけど、今回は違う。山南の死は史実、ただし方法が違う。
こういうのを積み重ねるって方法を思いつくのは…クロカンしかいませんよね???(黒田如水とか孝高とか官兵衛とか面倒なので当noteではクロカンで通しています)

今回、がっつり綺伝と単独行を復習して行ったのでつながってきましたよ。
もしかしなくても、天伝无伝、そして綺伝で歴史上人物に史実を教え、改変のきっかけを作ったのは、カゲんばちゃんなのでは???
んでそのカゲんばちゃんのバックにいるのは当然クロカンですよねええ???

維伝はその点違うんですよ、竜馬が「手紙を読んだ瞬間に土佐にいた」だから。あれは一般本丸の特命調査もステ本丸の特命調査も皆同じはず。ステ本丸の特命調査だけが特別に変わっているということではなかった。
明確に変わったのが綺伝で、科白劇=一般の特命調査ももちろん、時間遡行軍がガラシャに未来を教えることがきっかけではあるでしょうけど。もしかしたら、ステ本丸時間軸ではその遡行軍がカゲんばちゃんなのでは???

そういえば今回は刀の本能という言葉が出てきませんでしたね。でもそれを感じたシーンがありました。最後に安定が監査官と話す場面、「沖田くんが菊一文字を使っていたとしても、僕らのときより活躍できたとは思わない!」ってところ。
これを聞いて、ああ本能だなあ、愛だなあ、と思ったんですよね。自分が愛されたその歴史こそが唯一の正史だ、と強く信じて誇ることが、正史を守る本能でもあり、歴史を守ることで愛に応えることでもあるのだなあ、と。
…ん?書いてて恐ろしくなってきました。つまり元の物語が強い刀ほど、歴史を守る本能が強いってことになりますよね、そう考えると。どこかで見た考察ですけど、刀剣男士の本能は「生存本能」、つまり自分が生まれた歴史を守る本能ではないかと。
…単独行で、てか極修行で、まんばちゃん、「どっちが山姥を斬ったとかどうでもいい」とか言ってたけど、どうでも良くなくない??正史守れそう???
いやそれとも、「本科にも写しにも山姥を斬ったという物語が寄せられた」という歴史が強いからいいのか…???

あと気になるのが、新選組隊士がやたらまともだったなあ…と。維伝では東洋が「何もかもが朧げじゃあ」になってたし、綺伝ではキリシタン大名が、「俺は死んだはずなのになぜここにいる…俺は鵺か?」って混乱してたのに、今回は、生きながらに取り憑かれた人も、鬼籍から蘇った人も、意識がはっきりしていましたよね…。放棄された世界の住人のはずなのに、維伝や綺伝の朧たちのようにならないのはなぜ???
この改変された歴史が、単なる放棄された世界以上の強度を持ってしまっているとしたら、そのおかげで歴史上人物たちの強度が増したということならば…一大事では???

それと、カゲんばちゃんが辿ってる順番ってどうなってんだ??と思ってたところこちらのツイートを発見し、自分が整理したいと思ってたことをまとめてくださってたので引用させていただきます。カゲんばは慶長熊本で長義に折られているので、それが最後のはずですものね。


とりあえずまた円盤で見返したいと思います。目が足りなすぎるあんなん。個別にキャストの感想書いてると眠れなくなるのでこのへんで。

いちばん好きなところは、近藤さんにとっては虎徹は本物であり、この物語の長曽祢虎徹にとっては近藤さんは武士であった、ということですかね。このやり取りがあってこそ、ここは「夢が叶った世界」になったのだと思います。
ではこのあたりで!

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