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現代の国の借金を考えると、江戸時代の飢饉はひとごとではない

「代表的日本人」をお話しさせて頂く北海道合宿の準備の中で、江戸時代の飢饉の餓死者数を調べることがありました。皆さんは江戸時代の飢饉の餓死者というと、どれくらいの規模を思い浮かべるでしょうか。
 
江戸時代には江戸三大飢饉といって、享保の大飢饉、天明の大飢饉、天保の大飢饉がありました。
 
まずは享保の大飢饉。これは1732年に発生したもので、冷夏と害虫を原因として、主に西日本の影響が大きいものでした。昔の大河ドラマ「吉宗」にて、西田敏行さん演じる徳川吉宗が、餓死者のことを思うと食が進まないシーンがあったことが思い出されます。
 
この享保の大飢饉での死者は1万2千人と言われています。阪神淡路大震災で亡くなられた方が約6,400名でしたので、その倍となり、大変な悲劇に思えます。
 
しかし、この後、もっと凄まじい飢饉が訪れます。
享保の飢饉から約半世紀後の1782年~88年にかけて、天明の大飢饉が発生します。主に東北地方を中心に発生した飢饉なのですが、
 
この飢饉ではなんと90万人の方々が亡くなられたといいます。もはや想像を絶した数字です。。。
例えば、現在の青森県八戸市にあった八戸藩などは、人口6万5千人に対して3万人が亡くなったといいます。
 
この天明の飢饉の後、1833年~39年にかけて天保の飢饉が発生しています。この際は天明の大飢饉ほどではないですが、約20万人の方が亡くなっています。
なお、この時に大阪の幕府役人であった大塩平八郎が、飢饉にも関わらず将軍就任の祝賀の為に米を江戸に送る支配層に憤慨し、大塩平八郎の乱が発生しています。
 
なぜ、このように江戸時代には飢饉が頻発し、また大量の餓死者がでることになったのでしょうか。
 
一つは気候変動の問題もあったと思います。あまり一般的に知られていることではありませんが、日本に限らず世界的に18世紀半ばごろまでミニ氷河期にあったと言われ、現代よりも寒い時期が続いたことです。現在のように稲が品種改良されていない中では、寒冷に対してより耐性がなかったと思います。この点については天災です。
 
しかし、単なる天災とは言えない面も多々あります。
当時、生産された米の約半分近くは支配層である武士階級に年貢として吸い上げられていきました。この年貢米を藩や武士は換金して生活していた訳ですが、江戸時代半ばごろから借金漬けであった武士階級は、米をほとんど備蓄することもなく、ほぼ全てを換金していきました。
 
その為、当然のように飢饉が起きた時には放出する米がありません。飢饉により当年の米がなく、また過年分の米も全て換金されて無い為、人は飢え、餓死者が多数発生したのです。
 
こうした中でも飢餓から免れた藩もありました。そうした藩は常日頃の備蓄をしていたり、また飢饉時の非常食について指導を行うなどの政策を行っています。
また、二宮尊徳のように、支出を抑えてきちんと余剰を生み出す指導を受け入れたエリアは、窮乏から脱して豊かになったりしています。
 
今も財政は際限なく支出していますが、このようなことを繰り返していると、本当の非常時に耐えられるだけの余力を無くしてしまいます(既になくしているかもしれませんが)。江戸時代の飢饉は現代の教訓としても色々考えさせれます。

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