になうものは重く、道は遠い

曾氏いわく、「子はもって弘毅(こうき)ならざるべからず。任重くして道遠し。仁もっておのれが任となす。また重からずや。死してしかして後やむ。また遠からずや。」(論語、奏伯第八)
「学に志す士は心がひろくつよくなければならない。になうものは重く道は遠い。仁を自分の荷として負うのだ、重くならないはずがあろうか。仁を背負って死ぬまで道を行くのだ。なんと遠い道であろうか。」

 
この一節は、戦後の東京裁判で唯一、文官として絞首刑となった広田弘毅元首相の名前のゆらいとなっているものです。
 
福岡の貧しい石材店の家に生まれ、志をもって東京に出る前に、広田の意志で「弘毅」と改名したとのことです。その後に東京帝大、外交官、そして総理大臣という華やかな人生を歩みましたが、総理大臣時代の政策が責められ、刑場の露と消えました。
 
その業績に対する評価は分かれるところですが、改名してからの人生は、華やかながらも、になうものは重く、道は遠いものだったはずです。その改名はその後の広田の人生を暗示していたようにさえ感じます。
 
広田の話から離れますが、この言葉、今放映の大河ドラマの主人公、神の君の遺言も思い起こさせます。
 
「人の一生は重荷を背負うて 遠き道を行くが如し いそぐべからず」
(人の一生というものは、重い荷を背負って遠い道を行くようなものだ。急いではいけない。)

 
広田といい神の君といい、歴史に名を残すような人達が歩む道は、になうものは重く、道は遠いものであることを感じさせます。
 

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