できない家族と変な子供の話

私の半生その二。
とても長いから暇な人だけ読んでね。
(虐待の表現などあります)

・幼少期

父と母と兄と私の、4人家族の平凡な家庭。
末っ子の私はずっと身体が痒くてアトピーに苦しむ子として生まれていた。父は職場を転々としていたし母は1人で出掛ける事が多くて、8坪の小さな家で、私はよく天井に吊られたピンク色のメリーを見ていた。

父はストレスに弱い繊細な人で、パチンコへ通っては暴れていた。休日は家族総出でドライブへ行く決まりになっていて車を走らせるけれど、なぜか道路沿いにはパチンコ屋があり、その看板を見た父はスイッチが入って暴れだしてパチ屋へ行くまで止まらない。「10分で戻る」が口癖の父はもちろん10分やそこらでは戻って来ないし、母は全てが嫌になって日陰で休み、私と兄は車の中で暑さに耐え、こっそり持ち出していた熱いジュースを飲んでいた。それでも死にそうになるからチャイルドロックの無い運転席から脱出してパチ屋へ入るけど、見知らぬ男性が私を誘拐しようと手を掴みに来る事もあって怖かった。パチ屋へ行く時は決してパチ屋に用がある時だけでなくて、両親がデートへ行く時もそうだった。仲の良かった両親は夫婦水入らずのデートが好きで、私と兄をパチ屋や玩具屋やペットショップ、電気屋等へ置いて洋服を買いに行ってしまう。もしくは私達の世話が嫌になり死んで欲しくなった時に、ワンチャン熱中症で死ぬ事に賭けてわざと何時間も駐車場に放置する事もあった。何度か戻ってきては「まだ死んでない。あと3時間だけ待ってみよっか」とか言ってた。私は朝のニュース番組を読む事ができて、自分と同い年の子がパチ屋で死ぬ事を知っていた。死を覚悟しながらも生きると決めていた。

そんな両親もたまに子供を可愛がりたくなる日があったらしく、家族サービスをしてくれる日もあった。私は感情の表出が乏しい子だったからよく怒られた。

兄は頬がぽっちゃりした子供らしい顔立ちで愛想が良くて褒められ、膝抱っこされていた。兄は私の事が嫌いで、理由は「妹が産まれてから全部が半分になったから」で、なんとこの感情が今に至るまで続いているらしい。実際は半分どころか、2人で仲良くねって与えられた物も兄が独占し、1人1個ずつで与えられた物も「お前がいなきゃ僕が全部貰えたから」と私の分まで奪い取っていた。両親はそこに肯定的で、男で長男の兄が欲しがるなら兄が正しくて妹は女だから間違い、というスタンスだった。

母は感情のやりくりが下手な人だった。この家族は常に男が上だから母は家族カースト3番目で、母のストレスは唯一の格下の私へ向かった。私が4歳になる頃までは優しかった母はある時から豹変し、父がいる時は普通にしているけど私と2人きりの時は鬼のように暴れたし、露骨に兄弟差別もした。

ある日、家に電気オルガンが来た。理由は私が音楽をやりたがったからで、母方の祖父母の知り合い経由で譲り受けたもの。後で調べたら1960年代のYAMAHA製。家に来た日はそれはそれは嬉しかった。スイッチを入れて1分待ち、それから鍵を押すとファーッと音が鳴る。しかし母は違かった。家に母と私しかいない時に私をオルガンの前に座らせて「今すぐこれ弾いて!できなかったら養子だからね!」と。目の前にあるのは読み方もわからない古い楽譜。もちろん弾けるわけがなく、母は私の髪を両手で掴んで振り回して「アンタがピアノ弾きたいって言ったのに!弾けないなら弾きたいとか言わないで!私子育てなんかイヤなの!」と暴れ回った。これが毎日のように続いて、私はオルガンから離れて過ごすようになった。

父もパチンコでは解消できないストレスを抱えていた。父は昼間に勃起した時は必ず私を股間に座らせた。母はその相手をしたくないと言って雑誌を読んでいた。兄はよく分かっておらずギャハハと笑いながら私をボコボコ殴っていた。

・小学生

初めて友達ができた。入学時の教室で名簿順に座っている時に前の席に座っていた子。笑顔がキラキラと眩しくてこれは恋なんじゃないかと思った。親が工務店だそうで私の親の職業もまあまあ近かったので親からのウケも良かった。毎日のように一緒に遊んでいたけれど、いつしかトラブルが増えていった。私は我慢強い代わりに自閉傾向が強かった。友達はどこからどう見ても健常者だったしお姉ちゃん気質だったけど、演技かと思うくらいに「えーん」とすぐ泣く子だった。あまりにも文化が違うと感じた。小学1年生でこんなにあっけなく泣くものかと。私のことは「性格が悪い子」だと嫌われ、遊びの中で疎外されるようになってその子と縁を切った。

後からできた友達A子ちゃんは嘘つきな子だった。独占欲が強く私の自転車の鍵を隠し私にルールを破させる人だった。少しでも不機嫌にさせてしまうとA子ちゃんは学校で私に関する嘘をベラベラと喋った。それでも優しい所もあって、私が夏休みにどうにか食事できるように探してくれる子でもあり、生きていく為には頼るしかなかった。

小学校には夏休みがある。夏休みがあるという事は給食が無いという事だ。母は夏休みに入ると「私も夏休み」になり、朝食も昼食もろくに出てこない。運が良ければコーンフレークやカップケーキ(百均で売られていた、電子レンジでチンするもの)があったけど、朝から夕方までにありつけるのが小さな「メン子ちゃんゼリー」5個だけなんて日もザラにあった。夜に食べさせてもらえるのは母がこっそり食べて常温放置して腐らせた物で、食べないと養子だと脅されるが食べると吐くか蕁麻疹に襲われる。そして吐くと父から殴られる。夏休み中の食事は毎日買ってもらえる牛乳1リットル、スーパーの試食と、友達の家で少し分けてもらえる目玉焼きだった。ひどい生活だったせいか6年生の夏が終わる頃には私の声は男のように嗄れていた。

両親のデートの習慣もずっと続いていた。公園や電気屋が好きだった。無料だから。朝のうちに公園へ置いていかれて両親が戻って来るのは夕方。もちろん昼食は無い。そこのスタッフさんは当然気付く。同級生に偶然出くわして心配された事もあった。

兄は心のガス抜きができない子で、よくクラスメイトに暴力をふるったりクラスメイトの物を借りパクする問題児だった。本人としては「たくさん我慢していた」らしい。私のことも毎日ボコボコと何十分も殴っていたし目潰しも狙う子だった。

母のパート勤務が夜の工場だった事もあり「親が水商売らしい」「実はヤンキーらしい」と噂を立られたりした。実際は両親ともに凡人で、ヘラヘラしてて、場当たり的なだけだった。母は洗濯嫌いで自分の服だけしっかり洗濯し、私の服は1ヶ月も放置するから女子なのに臭くて、私はとても嫌われてたけど親の言い訳のほうが上手くて学校では私が怒られた。

12歳になって私は変わった。急に何もやる気が無くなった。今思えばそれは統合失調症の前駆症状で抑うつと焦燥感だった。

電気オルガンは壊れてしまった。たぶんガラス管が壊れてしまったみたいで、ところどころ出ない音がある。空気の入りも弱くなった。

・中学生

兄が虐めを受けた。陽キャに囲まれて囃されて兄はカッターを振り回したらしい。先生が家に来た。父は兄に頭を下げさせて「男が弱いやつを虐めるのは当たり前だ!やられたくせに問題を起こしたお前が悪い!」と言っていた。

幸い私は紙のテストだけは優秀な子で、同じ学校の同学年の中ではトップクラスの成績だった。しかし統合失調症の魔の手は徐々に進行していって、数学の成績が落ち始めていた。

幻聴が聴こえる日があった。校舎の階段を下りていると足首を悪魔に掴まれてスッと引かれた。引かれるままに下りていくと踊り場へ出て、そこから下を見下ろして、すると悪魔の声で「ここから降りると楽だぜ」と言われた。帰宅途中に傘をさして歩いていると、雨音に混じって背後から私を追いかけてくる革靴の音が聴こえた。田んぼ道で、振り返っても誰もいなかった。

受験シーズンになると両親は積極的に私にドラゴンクエストⅧをやらせた。両親の考えがどういうものだったのか全く分からない。結局それはラスボス手前のレベル上げ途中までで終わった。私はずっと、音楽をやりたかった。

・高校生 

入学テストの成績は良かったらしく、数学以外は好成績で同学年の10番目だと言われた。

私は馬術部に入り、それが生活の中心になった。体育会系の縦社会で、弱音も家庭の事情も許されない。でも乗馬クラブの先生達は私の事情をなんとなく理解していて、ボロくなった服をくれたり食べ物も恵んでくれた。

統合失調症が進み、高校2年生で掛け算が出来なくなった。徐々に板書も読めなくなった。ある日1人だけで呼び出されて空き教室で1枚のテストを解かされた。半分も分からなくて泣きながらぐしゃぐしゃ書いて、その結果を見た先生達は信じられないという顔をしていた。それは私が入学時に解いた入学テストだった。先生達は私の両親の話の通じなさを十分に知っていたそうで、なんとか卒業だけはさせてあげようという話になった。この段階で先生達の仮定では私がアルツハイマーではないかという話になっていた。

・専門学校

センター試験はボロ負けだったので専門学校へ入学した。父は看護科を薦めて母は事務を薦めたけど、私は自分が病気だと気付いていたからセラピー的な効果にわずかに期待を賭けて動物系の学校へ決めた。病気の事はもちろん両親に話していて、両親はもちろんそれを門前払いしていた。

統合失調症がわずかに回復した。掛け算などの能力が一時的に戻り潜水士の資格をとれた。双極性障害の兆候も出ていたけど、その鬱傾向が良いように作用して自動車学校のテストがほぼ満点でMT免許もとれた。

しかし社交性等は全く駄目で運動能力も悪くなり、アルバイトは1ヶ月でクビになった。そりゃそうだと思った。

昼食の食費は親から数ヶ月おきにランダムに貰っていた。それで100円のパンと水道水でやりくりして貯金してTSUTAYAでCDを借りた。残ったお金は就活費用にあてた。

・派遣社員

あからさまに酷い状態の私を雇ってくれたのは怪しい派遣会社だった。
「送迎あり」と書かれていたが私が送迎する側だった。給与18万の額はアルバイトの場合で、入社と同時に深夜手当を含めて手取り12万になった。急にシフトは変わるし、そもそも職場もシフトも希望休も決めさせてもらえない。健康診断は偽造。インフルエンザや胃腸炎で診断書をもらってきて見せたらシュレッダーにかけられて仕事に出ろと言われた。

初めはカレーライスなんか作れたけど次第に遂行能力が失われていった。カット野菜を電子レンジでチンしてカレー粉をふりかけただけとか。ある日は鶏肉を調理しようと思ったのにまな板に乗せた段階で急に何もできなくなり、そのまま寝て、起きて仕事へ行って、それを3日繰り返してふとまな板を見たら鶏肉が緑色っぽく変色していてゴミ箱へ捨てた。

部屋はゴミ屋敷のようになった。まともに考えられなくなって車の運転も暴走気味になったし全ての挙動にタイムラグが発生した。事故を3回起こした。

再び幻聴が始まった。アパートの近くには病院があって頻繁に救急車が通っていたけど、そのサイレンの音に混じって両親が私を呼ぶ声が聴こえた。恐ろしくて固まって耐えた。ドライヤーで髪を乾かしている時には工場のエラー音が聴こえたり、家族が髪を鷲掴みにしたり殴ったりする感触が蘇った。

100万貯金するつもりでいた。当時は個人ブログ全盛期で調べ物をする時はGoogle検索でブログを読んだ。鬱の人が入院した時にアパートの家賃を含めて年100万も費やしたらしい。私は自分の事をきっと鬱に違いないと思っていて入院費用を貯めていた。でも車の事故でどんどんお金が飛ぶので全く貯まらなかった。

記憶が変わり始めた。自分は過去に芸能人と接触していて、実はすごい才能があって、結婚の約束をしていて、あの人が何月何日に迎えに来て、監視カメラで私の全てがネットで生中継されていて、皆が私の話をしている。私は悪い人に目をつけられていて、私が人を殺さなければ代わりに悪い人が100人殺して、私も殺されてしまう。

そして私はスーパーの包丁売り場で迷って、買わなくて、警察署へ行って確認してもらって、1人で病院へ行った。

・今

それから10年経っても私は治らない。

両親は穏やかになった。全て忘れて、というか「やった側の親が忘れてやってるんだから子供のお前も忘れろよ」となって、無かった事にされている。記録なんて無いから、無いと言い張れば無いという事になる。

兄も穏やかになった。ほぼ会話できない人間になったが健康体でしっかり働く孝行者という事になっている。私だけが異端者だ。

音楽を始めた。できないけど。必要な能力は元から弱かったけど今はもっと無い。それでも今やるしかない。過去にそのチャンスは無い。

・おわりに

皆さんどうか幸せに。

ここから先は

0字

¥ 300