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2「おさないウサギのトイレ」考


  1988年(昭和63年)6月。T小学校にウサギが数匹(正式には数羽)いた。餌は、米ぬかやトウモロコシ
 の入った鶏の飼料。
  飼育小屋の床はコンクリートで、その上に蓋のない木製のリンゴ箱を横向きに置き、 中に藁を入れて
 巣作りができるようにしていた。その中で何回か子ウサギが生まれた。
    これは、その一場面の話である

 生まれたばかりの子ウサギは、まだ目も開かず産毛さえ生えていないのに、巣箱から這い出てしまうことがよくありました。そうなったとき、犬や猫の親ならば、はい出した子を口にくわえ元の巣に連れ戻すことでしょう。
 ところが、ウサギの親は目を疑うような行動をとるのです。元来、ウサギの親は神経質なのでしょうか、人の手が触った赤子は以後見向きもしません。子育てを放棄してしまいます。しかし、人が触っていなくても巣から出てしまった子に対しては、残酷・無慈悲ともいえる行動をとりました。這い出した赤子には気を留めないばかりか、無視をして平気でその子を蹴散らかしながら走るのです。
  その子は、もちろん母乳を与えられることもなく、間もなく表皮が干からび、息絶えます。

 そんな中で、あるとき「運よく」5匹のウサギが元気に育ちました。
 毛が生えそろい、ぬいぐるみのようにかわいい子ウサギたちは、学校の子どもたちのアイドルでした。
 しかし、生活者の多くなった小屋の中は、定期的に掃除はしていたものの、だんだんと不衛生になり、皮膚に棲みつく寄生虫が発生する心配が出てきました。
 そこで、土曜日の放課後、ウサギたちを全部外に出して小屋を掃除した後、殺虫剤で駆除することになりました。駆除した直後にウサギたちを小屋に戻すことはできませんので、5匹の子ウサギを私が引き取り、自宅へ連れ帰ることにしました。子ウサギにとっては、2泊3日の外泊です。

 さあ、ここからは私の本領(?)発揮。子ウサギたちには、正味1日半、私に付き合ってもらいましょう。

 まず、帰り道、S川の土手でちょっとしたピクニック気分を一緒に味わいましょう。
 土手の道路わきに車を止め、段ボール箱からウサギたちを取り出し、土手の草むらに置きます。そこには、クサフジ、ナデシコ、その他種々の草が茂っています。クサフジの茂みで子ウサギたちは思う存分その日のえさを食べました。餌場から遠くへ離れることもなく、無事に食事を終え、再び段ボール箱に入って我が家に到着。

 5匹の子ウサギたち、ここからは少しあなたたちの試練の時が始まります。
 私が子どものころから持っていた疑問を、あなたたちには身をもって解明していただきます。「決してあなたたちは死なない。」という確信のもとに、私は実験しますから。

 私は小学校時代の一時期、弟と一緒にウサギを飼っていました。
 その時、家の大人たちからよく言われました。「ウサギに水をやったら死ぬで(死ぬよ)。朝採ってきたタンポポやほかの草に水がついていたら、ふき取ってからやるんで。」と。
 「ほんまやろか(本当だろうか)?」と、心の片隅で思っていましたが、ウサギが死んではいけないので、言われるままに水気をふき取って与えました。
 その後も、何度となく、「ウサギに水気は禁物」ということを聞いた記憶があります。

 しかし、それに対する疑問は徐々に大きく膨らんできました。
 「おかしいじゃない? ウサギは生物で、水は不可欠のはずなのに、どうして水のついた草を食べられない? 何より、食している植物の中には多量の水分が含まれているではないか。植物に含まれている水分と、植物についている水に違いなんかないはず。水がついた草を食べたって死ぬはずがない。」と、これは私の中で確信に近い仮説となっていました。
 そして、「これを証明するには、今が最高のチャンス!」となったわけです。
 何が「最高」かって ? 私の実験に干渉する人が誰もいないからです。中学・高校のわが子たちは、部活動でまだまだ帰ってこないでしょう。夫ももちろん明るいうちに帰ってきたりしません。思い通りのことができます。

 で、まず、子ウサギたちの汚れた毛をシャンプーすることにしました。
 水道水で体を濡らし、シャンプー剤をつけて洗った後、よくすすぎます。
 「水を食べたって死んだりはしないはず」とは思っても、さすがにウサギの全身を水浸しにするのは気が引けました。顔にはできるだけ水がかからないように気を付けながら体を洗い、タオルで水をふき取り、あとは自然乾燥。見違えるほど清潔になり、ふっくらと可愛くなりました。
 このシャンプーの最中、驚くべきことを見ました。1匹のウサギが、近くにあったたまり水を食べて(なめて)いたのです。のどが渇いていたのでしょう。
 もしも、ウサギが水を飲んで死ぬのなら、自分から水を求めるはずがないでしょう。今日まで、生物として長い年月を生き永らえ経験を積んできたウサギが、「自分の生命を危険に陥れる水」を飲むはずなどないでしょう。この時点で、私は、「水を食べてもウサギは死なない。」と、ほとんど確信したわけです。
 翌朝(日曜日)になっても、5匹のウサギたち、すこぶる元気。水を飲んでいたウサギにも何ら変調はありません。つまり、「水を食べても、ウサギは死なない。」という仮説は図らずも実証されたのです。。(ちょっと強引かな?)

 ところで、タイトルの「トイレ考」、このことについて記さなければなりません。
 これは、同じく日曜日の朝、偶然に見つけた「大発見」についての考察です。

 土曜日に連れて帰るとき、段ボール箱の中をまずビニル袋で覆い、その上に新聞紙を敷き、5匹のウサギを入れました。こうすれば、新聞紙を取り換えるだけで、簡単に,箱を清潔な状態に保つことができます。

 帰宅したとき、箱の中は、すでに所かまわず排泄した子ウサギたちのウンチとおしっこで汚れきっていました。シャンプー後に取り替えた新聞紙も夜中には、同じように所かまわずの排泄物によって汚れていました。「ウサギだもの、こんな汚し方も仕方ない。」と、汚れたら取り換える面倒を我慢しました。
 夜中に、その日最後の取り換えをして床に就きました。

 日曜日の朝、段ボール箱の中を覗いてびっくりしました。前日とは様子が違っています。
 箱の中は、汚れたところとそうでないところがはっきりと二分されていたのです。片方は、糞と尿によってひどく汚されていましたが、あとの半分は全く汚れていないのです。そして、よごれていない方に、5匹の子ウサギたちは寄り添っています。まるで、「トイレはあっち」と、相談して取り決めをしたかのようです。
 こんなことってあるのでしょうか。いや、現に目の前にあるのです。 

子ウサギたちのトイレ

 前日、子ウサギたちは所かまわず排泄し、自分たちの部屋全体を汚しました。都合、2回分の新聞紙をそのように汚したわけですが、その後、彼らは何を思い、考えたのでしょう。
 きっと、汚された場所を気持ちよくは感じなかったのでしょう。そこで、「暗黙のうちに」か「相談して」か、居場所と排泄場所を分けて使うことにしたのでしょう。
 そして、そのことが結果としてとても気持ちが良いことを発見し、以後ずっとその「取り決め」が守られていたのだと私は思いました。

 これって、すごいことだと思いませんか?
 1匹だけがこの棲み分けをするのなら、まあ有りうることだと思います。   汚れたところを避けて居場所とし、排せつする時には自分の考えだけで決めた場所を使えばいいわけですから。ところが5匹となると、全員の考えが一致しなければできないことです。どんなにして5匹の意思統一ができたのでしょう。今でも不思議でなりません。

 「汚れているよりは清潔な方が気持ちいい。」→「気持ちよくいるためには清潔にしなくてはならない。」→「では、その方法を考えよう。」→「決めたことを皆で守ることが是非とも必要。」、こんなプロセスで「子ウサギのトイレ」が出来上がったのだとしたら、子ウサギたちの問題解決能力に感服せざるを得ません。
 同時に、この「子ウサギのトイレ」は、環境を汚染してきた私たち人間に、重要な示唆を与えているようにも思えました。

 


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