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元も子もない話

5/13 月曜日 現在11時ちょうど
会社のデスクでPC操作の邪魔になると外されている私の腕時計の長針が数字の書かれていない文字盤の上で頂点を回った。
朝9時に出社して、2時間ほど作業をしていた休憩中にこのエッセーを考え始めました。
土日をお茶カフェのアルバイトで過ごしたが、疲れは7時間半の睡眠で解消し、朝6時30分に起床した。大きな雨音と共に。快眠の気持ちよさと悪天候の挟み撃ちでなんとも言えない朝だったが、いつもより15分早く家を出た。

とりあえず今日の朝について書いてみたが、私はこの文章がどこへ向かっているかはまだ決めていない。急に幼少期の話をするかもしれないし、このまま午後の予定を話してもいい。
私が何を書くのに迷っているかというと
初めて書くエッセーを一貫性のある ヨクアル を話してもいいし、
自由な形式をいいことを頼って ソウサク を語ってもいいし、
こんな韻を踏んで チョウカク をくすぐってもいいなと考えている。

最近見ているHiphopのラッパーたちの話をしようと思ったが、自分について1つ気が付いたというか、改めて言葉にしようと思ったことがある。

上記でこの話をどこに向けるか悩んだが、このように俯瞰して自分を見るようなことをやりすぎてしまっていると感じる。
俯瞰する事。客観的に自分や周囲のことを見て、物事を把握したり、自分について見つめなおしたりすることで、一般的には良いこととされている。物事を全体的に捉えたり、行く末を予想する為に使われる能力だからだ。

だが、全体的に見すぎているからこそ、小さな物事を軽視したり、見逃してしまいがちなのである。同じ音楽を聞いても、同じ芸術を見ても、その技術や背景に気づきにくくなってしまうことがるし、感じることも詳細な部分ではなく、全体的な流れについてが多くなる。
もちろん、原因はこれだけではないし、絶対そうだということではない。

そもそも、この話している内容さえ、俯瞰している結果なのだからもう話すことをやめたくなってきてしまった。
もう考えることをやめて、最近欲しいサボテンを買って、毎日水をあげて、針を1本1本触ってみたり、葉の部分の質感がどのような触り心地なのかをずっと見ていたい。
俯瞰することをやめられないし、書きたいエッセーすらも手を止めたくなった。これは紛れもなく元も子もない話だ。





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