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湛江の港で眠る、日本の南米移民船「ぶらじる丸」:一戸信哉の「のへメモ」20220204

2/4の放送では、広東省湛江在住で、元交換留学生の羅嘉怡さんにお話をうかがいました。日本語学科で学び、今も日本関係の仕事をされている羅さんですが、新発田での半年間の留学生活は、とても貴重な時間だったようで、今もエフエムしばたをネット経由で聴いていると話していました。

湛江にある湛江科技学院(羅さんが在学当時は、広東海洋大学寸金学院)は、敬和学園大学との協定校で、断続的に短期留学生を受け入れてきました。ですが、私自身が現地におもむいたことはなく、どんなところか調べたこともなかったので、今回収録前に少し調べてみました。広東省といっても、私がよく知っている香港や深センとはだいぶ位置が異なっていて、西側の街、海南島、さらには広州チワン族自治区にも近いのですね。そして何より、長らくフランスの租界だったということも知りました。トンキン湾事件のトンキン湾をはさんで、半島の向こう側はベトナムでもありました。

そしてもう一つみつけたのが、日本船の存在。戦後再開された南米移民事業で、多くの日本人たちを運んでいたぶらじる丸という船が、現在も湛江に係留されているそうです。いくつかのブログ記事に、朝日新聞の2009年1月27日の記事「ぶらじる丸、生きてた 解体の予定が…中国で観光施設に」が紹介されています。

それによると、1954年から74年までの間、南米移住の人々を運び続けたが、1974年にその役目を終え、三重県鳥羽市で海洋パビリオン「鳥羽ぶらじる丸」になります。


しかし、入場客が伸び悩んで閉館となり、船は中国へ運ばれて解体されるはずでした。

これを湛江市の「湛江海上城市旅遊娯楽」の張華生会長さんが船を買いとり、海上都市「湛江号」として再生させ、商業施設に改造したのだそうです。

羅さんにきいてみたところ、船はまだ港に停泊しているけれども、すでに営業はしていないそうです。

調べてみると、この「ぶらじる丸」は二代目で、その前の「ぶらじる丸」は、海軍に徴用され輸送船になりましたが、その後航空母艦に改造されたのちに、最終的には米軍によって沈められています。

多くの日本人の夢の実現、挫折の入り口ともなった南米移民船。歴史的役割を終えた船は、静かに中国で余生を送っていましたが、おそらくその姿を見ることができるのも、あとわずかなのでしょう。

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