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日本語曲カバーを撲滅した90年代香港のラジオ局:一戸信哉の「のへメモ」 20211110

90年代、アジアンポップスにハマっていた私。今でも各国の音楽事情にそれなりに関心はあって、ときどき敬和キャンパスレポの中にもアジアの曲を忍び込ませています。ただ、エフエムしばたや敬和学園大学、あるいはゲスト、といったところと何らかの形でつながりがあってはじめて、選曲としては意味があるだろうとは思うので、そういった接点は探すようにしています。

この場面で、選びやすいのは、日本語曲の中国語カバー曲。中島みゆき「清流」や美空ひばり「川の流れのように」をそのまま流すのではなく、中国語のカバー曲でご紹介したことは何度かありました。

日本の音楽が中国語や広東語でカバーされることは、以前はよくあったのですが、最近はだいぶ数が減ってきているように感じます。その記憶をたどっていくと、私がアジアンポップスを聞き始めた90年代なかばに、香港で起こった「オリジナル」重視の運動のことを思い出しました。ネットでの記述はあまりみつかりませんでしたが、Wikipediaにそれらしい記述を見つけました。「原創音樂運動」という運動でした。ラジオ局が提唱し、カバー曲の締め出しをはかったのだそうです。

1995年に香港商業電台(en:Commercial Radio Hong Kong)にて、管理者の兪琤(en:Winnie Yu)が「原創音樂運動」を起こした。「本物の広東ポップス」を奨励し、ラジオ局の放送方針を変えた。曲の構成成分がすべて香港製、つまり作曲、作詞、編曲および香港育て歌手の声、という4つの条件があった。条件に満たさない曲は一切放送禁止とした。当時リードしていた商業電台のオンエア枠を失い、香港の音楽会社は莫大な損失をした。ラジオ局の禁制により、カバー曲は激減していった[8]。
RTHKが設立した十大中文金曲頒獎音樂會は1978年から1994年までの17年間、受賞した日本カバー曲は37曲あった。つまり平均毎年、香港人に愛されていた10曲の中で2曲以上が邦楽だということである。しかし、このチャートで1995から2015年にカバー曲はほぼなかった。1998年は1曲、2005は2曲、計3曲の洋楽をカバーしかなかった。20年間は、受賞した邦楽カバーはゼロである。

下の方を見ていくと、「原創音樂運動」が始まる前の1994年までに「十大中文金曲」、いわゆる年間ベスト10に選ばれた日本語曲のカバーが多数リストアップされています。これが1995年からパタッときえたのだそう。

これを機に、香港の広東語曲からはカバー曲はきえてしまったようですが、そうスパッといった気がしていないのは、おそらく台湾での国語曲のなかに、その後もしばらく日本語曲が結構あったということなのでしょう。

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