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『奢る』について、モヤモヤしている件

「この間の部活の時ね、卒業生の先輩がアイスを奢ってくれたんだ。それでね、明日の部活はアイスが食べられるんだよ!」

実際には、これの三倍ぐらいの話だったと思うのだけれど、ツムギの話を聞く時は、発する情報の中から必要なパズルを拾い上げて、あれ?ここには嵌まらないなぁ、あ、こっち?と組み立てながら聞くので、なんて言っていた話なのかハッキリと思い出せません。

夫と私は、話が7割8割進むまでの間、?????という顔をして聞き、「ごめん、何言ってるかわからない」と聞き直し、ようやく最後に、「ああ、そういう話だったの?」ということがよくあるのです。


私も話が下手なこどもだったので、「ケイトの話はよくわからない」とか、「もうちょっと短く話してくれる?」とか、よく家族に言われて、嫌だなぁと思っていたのだけれど、何が上手くいかないのかよくわからなくて、それは随分と大人になるまで続いてしまっていました。
20代の頃は、会社の先輩にもよく言われたなぁ。


だからつい、「今の話はこう聞こえたからわかりにくくなっちゃったんだよ」と、ツムギに言ってしまうので、ものすごく煙たがられます。
余計なお世話ですものね。

直してあげたいという気持ちもあるけれど、いつもよくわからない話を注意深く聞かなくてはいけないのが、それなりにストレスになっているという、こちら側の都合もあるのでしょうね。

他人なら、そっと離れていけばいいけれど、家族の場合はそうもいかないから、自分の「こうしてほしい」を口に出してしまうのです。


これは、完全に私の主観だと思うのですけれど、『奢る』って、目の前で完結するイメージなんですよね。

『奢ってもらった』と聞くと、アイスはその場で食べた状況。

『奢ってもらった』過去があるのに、またアイスを食べる話が出てきて、話がよくわからなくなってしまったのです。


結局、よくよく話を聞いてみると、先輩がアイスを買ってきてくれたけれど、その日は食べる時間がなく、先生が冷凍庫にしまっておいてくれたものを、明日食べる予定になっているということだったらしい。


「そんなこと、いちいち注意しなくていいじゃん!」


ツムギが言うのはごもっともで、後から、『奢ってもらった』を完結した話だと誤認してしまったのは、私側の問題なのだろうかとよくよく思考を巡らせていくうちに、私は別のことに引っかかっていたんだと気づいたのでした。


なんというか、中学生が『奢ってもらった』という言葉を使っていることに嫌悪を感じたのだと思うのです。

この嫌悪感は、ツムギが小学生のころ、スポーツチームに参加していた時から持っていました。

なかなか試合に勝てないツムギたちは、ようやく試合に勝つと、コーチに「おかしおごって!」とたかっていたのです。

コーチ側も「今日はコーチの奢りだよ!」と言っていたと思うので、子どもたちが悪かったとは思わないけれど、なんだか腑に落ちなかった。

私たち保護者は、もちろん、試合に勝てば喜んだけれど、そうじゃない日でも、「今日は暑い中がんばったね」とか、「一日試合だったからお腹空いたでしょう?」とか、特別なことがなくても差し入れすることがありました。

それが、コーチには「試合で勝ったらおかし買ってくれる?」と言うことが、恒例になってしまっていたのです。


『奢ってあげる』

小学生の奢り奢られが問題になっているようなことが、ネット上に散見されたけれど、そもそも『奢る』っていう概念をこどもが知っている必要があるのだろうか?

『奢る』って、自分の稼いだお金で、人の飲食を払ってあげることであって、少なくとも日本では、アルバイトは高校生以上からが一般的で、中学生以下の子どもは『奢る』こと自体ができないということになります。

それなら、例え、お金を払う側がお金を稼げる年齢だったとしても、中学生以下の子どもに『奢ってあげるね』という言葉を使う必要があるのだろうか?

子どもはお金を稼ぐことができないから、稼げる人から飲食を提供してもらうことは当たり前のことで(ここで言う当たり前は、当然の権利だから感謝なく受け取っていいというニュアンスとは別の物ですが)、なんであのコーチは、『奢ってあげる』なんていう言葉を使ってくれるのだろう?と思ったわけです。


買ってきてくれた。

プレゼントしてくれた。

ご褒美をもらった。

ご馳走になった。

差し入れてくれた。

アイスをもらった。

いろいろな言い方がある中で、奢ってくれた。に、大人の、ちょっと奢ったニュアンスを感じるのは私だけでしょうか?

どうしてツムギは、数日経った出来事を話すのに、『奢ってもらった』という言葉をわざわざ(本人にとっては無意識なのでしょうけれど)チョイスしたのでしょう。


上司や先輩、自分より給与が高いであろう男性陣に奢ってもらうことに抵抗感がなかった時代に社会人になった私は、自分の収入が上がった暁には、同じように後輩たちにご馳走することを楽しみにしていました。
それがカッコいいと思っていたし、その人たちのおかげで、薄給だった若い頃に、身の丈以上のお店で飲食することができ、上質なマナーを学ぶことができたと今でも感謝していて、そうやって世の中は回っているのかと思っていました。

でも、昨今の、奢る奢らない論争を見るに、そこにはやはり、奢った側、奢られた側に上下関係のようなものを感じ、心地よくないと感じる人が増えたのではないかと思います。


なんか、『奢る』と誇示したりせずに、もっとスマートにお金が流れたらいいのに。


今日はものすごく主観的な話を書いてみました。

だから、結局まだモヤモヤ中です。

話があちこちに飛んで、ツムギの話以上に、わかりにくい話に仕上がっていることと思います。

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