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そうであって欲しい論

前提

以前から思っている事で、SNSだと突っかかって来る輩も多いので、ここで冷静に自論を展開して、一つの意見として、紹介しておきたいと思うのです。

私なりに違和感を覚え、不思議に思う事なので、文書化しておきます。

コレは私が「特殊な人間だ」という所から話を始める必要があります。
生まれつき人は違う条件を持って生まれ、人とは違う容姿を持って生きて来たという私の事情があるのです。

幼少期には「お前は普通じゃないw」とか「お前は他の人とは違うw」と揶揄われる事も多かったのが事実です。それもそういう要素が一つは先天的な、もう一つは後天的なものがありました。

そして、実際に、それは見てハッキリと分かる事だったので、それは自動的に自覚させられるものだったのです。そしてその治療に大人になって4年間もの時間を掛けて、大手術までしたので、その苦しみや痛みは尋常ではなかったという体験もしています。あれから20年近くも経つのだけれど、未だに引き摺っている部分でもあるのです。

つまり幼少期より「あぁ、俺は普通じゃないんだなぁ…」とか「他の人とは違うんだなぁ…」と思わされる場面が多かったのです。

要するに「人と違うのは当たり前」が産まれてからずっと続いて来たという経緯があるのです。そしてここがこの話の重要な起点で、重要な話なのですが、実際にそういう生き方をすると僕には【嫉妬】というものがまるで無いのです。

当然、皆さん、ご存知だと思うのですが、キリスト教圏には七つの大罪という考え方があるらしく【傲慢・嫉妬・憤怒・怠惰・強欲・色欲・怠惰】と七つの種類に分けられる人間の業を表す様です。要はそれを注意しましょうという戒めなのだと思いますが。

僕は間違いなく【憤怒】に属していて、怒りは本当に強いと自覚しています。そして逆に【嫉妬】がまるで無いのです。殆ど嫉妬しない。「羨ましいなぁ」と殆ど思わない。

理由は簡単です。「人と違う」ということをずっと認識させられて来たので、人と比較すると、自分はいつも惨めな立場だったのですから、それならばと、ある意味、自己防衛的にそもそもからして人と比較することをしなくなっていたのです。センサーが切れている。他人の人生や姿を気にしていたら行きて行けないので、元より考えない修正になっています。コレは大人になってから、自覚する様になった事ではあります。

コレがまず一つの前提として理解しておいて欲しい事になります。

違和感の正体

そして、実際に社会人になってから、罠にハマるのです。僕は街クラブの指導者ですが、何度か仕事で罠にハメられて、気持ち良く働いていたクラブを辞める羽目になりました。

最初の頃は全く理解出来なかったのです。「何故、この人は“子どもの為に”と言いながら僕の妨害をして来るんだろう?“子どもの為に”ならば大人が協力して、より良い環境を作ってあげる事が“子どもの為に”なるじゃないか。同僚である僕の足を引っ張るなんて、子どもの為にも、クラブの為にもならないじゃないか」と、常々、思っていたのです。

「この人は、何故、こんなに僕に対して冷淡なんだろう?挨拶をしても無視して挨拶を返さない。その割には“お前の教育はなってない”なんて言って来る。挨拶程度も出来ない大人が“教育がなってない”なんて人に言うなんてどういう了見だ?」と。

たまたま、そういう時に、別の先輩から言われたんです。
『あいつはお前が羨ましいんだよ。サッカーもよく知ってるしさ。あいつは、ホラ、サッカーを知らないしさ。ちゃんと教えられないし、実際に選手も上手くなってないだろ?でも、お前はそうじゃない。そうじゃないから、羨ましいんだよ』と。

ウラヤマシイ?

これぞ嫉妬なんでしょう。僕にはさっぱり理解が出来なかった。つまり嫉妬を理解していなかった。自分がその感情を極端に持っていないので、全く感知出来ていなかった。センサーが働いていなかった。だから嫉妬する人間のことが、嫉妬によって引き起こされる感情や言動が理解出来なかった。自分が持っていないことなので、それをまさか他人が持っているという感覚がなかったのである。むしろ、知らなかったので、全く感知出来なかったのです。

極寒の中で寒さを感知出来なかったみたいなものです。他人が私を氷漬けにしようと画策する。私は寒さを感知していない。どんどん身体が凍って来る。僕としては「ん?なんだか鼻水がよく出るなぁ」みたいな感じ。「何故か膝が震えているけどおかしいな?」みたいな。それが寒さによるものだと気付いてなかった。気付けば氷漬けにされて、凍傷を負い、凍死していた、という感じなのです。

面白いことに、これは30歳を超えた辺りのなのですが。そこまで気付かなかったですね。どうにも嫉妬だけは。例えばコレが怒りなら物凄く理解出来る。「あ、今の一言で怒ったな」とかね。

そして、僕は今まで悩み苦しんで来たことが一気に解決した。

違和感があったことが、全て解決した。

「どうしてあんな当たりもしない予言をするのか?」
「理解出来ない行動だな?どうしてそんなことをした?」
「何故にあんな行動をして僕の足を引っ張るのか?」
「酷いことを言うなぁ。意味があるのかな?」
「順番じゃないの?何故に俺だけ飛ばされたの?」

そういう違和感は、全て嫉妬によるものだった。

「僕が感知出来ないもの=違和感=嫉妬」という仮説。

この仮説を30歳頃から立てて、
実践して行くと、やはり殆どがそうだった。
私からすれば違和感のある言動、
つまり「何故、そんなことを言うの?するの?」は、
殆ど嫉妬によるものだった。

だから今では、
「理解不能=嫉妬」だとすんなり理解出来るようになった。
僕にとって理解不能なのは【嫉妬】なのだ、と。

本題

そして、ここからが本題なのです。
僕にはどうしても理解出来ないことがあった。
そして、それを昨日改めて言われて、
その正体が理解出来たのです。

「“あいつは俺が教えた”という指導者はダメだ」というもの。
ホラ、もう反論して来そうな人がいるでしょ。
「そんなのは傲慢だ」と。違うんだよなぁ。
傲慢じゃないんだよ、嫉妬だったんだよ。
だから僕は理解出来なかった。
ずっと違和感があった。

「あの選手は俺が教えた」という指導者。
僕にとっては普通なんですよ。
実際に僕もそう言うよ。

だってその子に、
プレーの仕方を教え、
考え方や判断基準を与え、
実際の行動や技術を教えたのは、
指導者である、僕なんだから。

別に僕だけじゃないよ。
土川さんの教え子は土川さんの教え子なプレーをするし、
土谷君の教え子は土谷君の教え子っぽい。
河本さんの教え子は河本さんっぽいし、
でも奥本さんっぽい所もあるじゃん、やっぱり。
だって、そりゃ、
そういう風に教えているんだからさ。

「あんな上手い奴、誰が教えても一緒だ」
そう言うんでしょ?
でも、僕はその場合はそう言うし、
そんな奴は10年に1人だよ。
実際によくあるのは、
「技術やタイミングの攻撃面は特に教えてないなぁ。
でも守備の面では俺が仕込んだよ」と。
それは「あの選手は俺が教えた」だよ。

面白いのは選手だって、それを否定しないことだ。
選手に否定されたら終わりだと思うよ。
でも選手だって、よく分かってる。
「小学生の頃は全くドリブルで相手を抜けなかったのに、
中学になってコーチに教わって抜ける様になった」と。
じゃあそれって僕がドリブルを教えた訳だ。
そうでしょ?

例えば「物凄いドリブルをする選手」がいる。
『うわぁ、あの子、凄いなぁ』って。
それが単発ならば、その子のものだ。

しかし、世の中は広いもので、
同じドリブルをするヤツが一つ下の世代にもいる。
『うわ、あの子も、凄いなぁ』って。
そして、また、次の世代にもいる。
そうなれば幾ら鈍感でも気付くんだよ。
「コレ、指導者が仕込んでるんだ」って。

多分、そこまで見てない次元の人が言っている。
「どんな指導者が教えても一緒だ」
「あいつは元からああいう奴だ」
「あれはあいつが持っているものだ」って。
そこの見分けは、案外、簡単だよ。
指導者側からすれば。

「あのコントロールはあの練習の成果だ」か、
「あのコントロールはあいつの持ち物だ」か。
そんなのは、結構、分かる。

そして、理由はもう一つある。
平日は週2回か3回の練習。
土日も両方練習か試合。
バスの中で長距離移動、
LINEで映像も送ってる。
長期休みはサッカー大会に遠征だ。
毎日の様に顔を突き合わせる。
一緒に戦う。
僕なんか長い選手で6年ぐらい携わって、
その内、5年ぐらい担当している様な奴もいる。
ジュニアの頃にスクールで、
チームでジュニアユースで。
中にはユースまでいる奴もいた。
え?それでも誰が教えても同じ?
あんなに下手くそだったのに?
今じゃ高校で関西トレセンだよ?
小学生の頃には市のトレセンも受かんなかったのに。
実際にはそんな奴もいる訳でさ。
指導者の影響をナメて貰っちゃ困る。

「あいつは俺が教えたという指導者はダメだ」か。
いや、だって、あいつは俺が教えたんだもん。

そういうこと

SNSで「あいつは俺が教えたという指導者はダメだ」
「誰が教えても一緒だ」というのは常に違和感を感じていた。

そして、気付く。

「あいつは俺が教えたという指導者はダメだ
(そうであって欲しい。何故なら自分は教えられる事が何もないから)」
「誰が教えても一緒だ(そうであって欲しい)」

不思議なものだ。

事実ではない話をする人が世の中にはいる。

選手なんて指導者に教わった通りにプレーする子が殆どだ。
だって子どもって素直で純粋になんだよ、殆どが。
だからどうしたって指導者の色は出る。
教わった通りやっちゃうからね。
それを誰が教えても一緒は無理がある。
むしろそっちの方が難しい。

それでも言うのは、
「そうであること」よりも、
「そうであって欲しい」から。

人間ってのは不思議だ。
そうである事実より、
恐らくそうではない事実こそ、
「事実はそうだ」と言う人がいるんだよ。

僕にはそれが違和感でしかない。
僕は「そうであって欲しい論」と、
勝手に名付けている。
そして、僕の中で「違和感=嫉妬」だ。

「あの子は、元々、凄かった。だから誰が教えても一緒だ」という意見。
それを言う保護者の本心は「あの子は、元々、凄かった。だから誰が教えても一生だ(だから、あの子を教えた指導者に教われなかったウチの子も、きっと大丈夫だ。いや、そうであって欲しい!)」だろう。

「誰が教えても一緒だ」と主張する指導者は「誰が教えても一緒だ(そうであって欲しい。だって俺は何も教えられないから。偉そうに“俺が教えた”という指導者が羨ましい。俺には教えられるものなんて何も無い・・・)」だろう。

特に、指導者はそうだと思うな。
だって、マジでちゃんと教えたことをやるんだよ、選手って。

誰がどう見ても堂安律は早野さんの教え子じゃん。
早野さんの教え子ってあんな感じにプレーするじゃん。
じゃあ堂安律にサッカーを教えたのは早野さんじゃん。

乾貴士だってそうでしょ?
セゾンや野洲には乾貴士みたいな奴っていたでしょ?
どの世代にも似た様な奴がいた。
そりゃレベルやスピードは違ったけど。
でも似た様なもんじゃん。
だって岩谷さんが教えてんだもん。
誰が教えたって一緒な訳がない。

「“あいつは俺が教えた”という指導者はダメ」
それは“そうであって欲しい”んだ。
そんなことが本当に出来る指導が羨ましいから。
そんな指導者に教われた奴が羨ましいから。

まあ、中にはマジで何も教えてないのに、
そういう馬鹿指導者もいるけど。
でも、そいつも本当は理解してるよ。
だから、そういう奴が、
良い指導者に嫉妬して、
酷評したり、妨害工作をしたりするんだと思う。
そうやって自分を大きく見せるのは、
多分、本当にそんな指導者が羨ましいんだ。

全ては嫉妬。嫉妬の成せる言動だと僕は思うな。
実際にはそうではないのに、
さもそうであるかの様に言うんだよ。
実際には「そうであって欲しい」なんだよね。
そして現実はそうじゃないけどさ。






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