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自分の舞台は自分で作る

いよいよこの投稿で最後になります。より、根本的で、心のよりどころのようなものを最後に。そして、よかったら『迷子のコピーライター』の本篇を読んでくださいね。ここにみなさんの書評もあります。それがあってからこれを読むとよりぐいぐいぐいとあなたの心をグリップしますんで。え、本篇も無料公開したら?って・・・いや、それは長くなっちゃうしなあ・・・

課外活動

 商店街ポスター展はぼくがセルフ祭(新世界市場が舞台のアホ祭り)という課外活動に関わっていたからこそ生まれました。さらにいうと、写真という課外活動を続けていたからセルフ祭に参加することになりました。会社と関係のない課外活動はずっと会社にいたらできないブレイクスルーを生みます。グーグルにはかつて20%ルールというものがありました。業務時間の20%は普段の業務と違うことをしなくてはならない。「しなくてはならない」つまり、義務なのです。電通にも、音楽、演劇、格闘技など課外活動をしている人は結構います。ぼくの課外活動は商店街ポスター展を生みました。ぼくのもう一つの課外活動、UFOの召喚も仕事になりつつあります。

 課外活動はもちろん、仕事にはなりません。お金にもなりません。課外活動から生まれた商店街ポスター展も2回目、3回目と会を重ねるにつれて「お金にならないことをやってどうするんだ」という意見が一部で出てきました。(ほとんどの人は応援してくれていたんですが)。確かにそれは一理あります。しかもたくさんのスタッフが関わっています。一部の意見と無視することはできません。一体、どうしようかと悩んでいる時に、新世界市場の会長であった澤野さんがぼくに名言をくれました。
「日下くん、ええか。今は金を稼いでへん。でも、人を稼いでるんや」
澤野さんは自身で立ち上げたジャズレーベル澤野工房で結果を残している人。だからその言葉には救われました。そして、まさに澤野さんの言った通りでした。大丸・松坂屋、三戸なつめちゃんの仕事などがここから生まれました。人との繋がりが仕事に繋がっています。

自分の舞台は自分で作る

イラスト:小路翼

「何かおもしろい仕事くださいよ」若かりし頃の愚かなぼくは、周りの人によくこう言いました。そしてまったく仕事は来ませんでした。今、振り返るにそりゃそうだと思います。ぼくという人間自体がおもしろいことをしていないのに、おもしろい仕事など来るはずがありません。何かおもしろいことをすることのすべてが他人頼みだったのです。

 おもしろいことは自分で作る。待っていても何も来ない。運よく来たとしても、それは受注しているにすぎないので発注側の意見を多く聞かなくてはならない。自分が本当にしたいと思うことはできないかもしれません。だったら、もう自分で勝手にやってしまうのです。自分の舞台は自分で作るんです。それには誰も口を出せません。

 パリコレクションなどのファッションショーでは「そんな服、普段誰が着るんだ」と思うような前衛的な服を着てモデルが歩いている。これは、各ブランドの最も尖ったクリエーティビティの発現です。しかし、ショーで発表された服はほとんど店頭に並んでいません。東京モーターショーでも「一体、どうやって乗るんだ」という未来の車が発表される。制作の場において、日常と祭りの部分という、ケとハレが切り分けられている。広告や他の仕事にもそんな舞台があっていいと思うのです。「そんなの、普通は無理だよ」といった尖った作品を作るお祭りの場があっていい。作り手の抑制のないクリエーティビティを存分に発揮する。そうすることは、仕事の営業活動にも繋がります。

自分のフィールドを作る

 病気になるまで、ぼくはいわゆる広告クリエーターの道をひたすら歩いていました。コピーライターとして技術を磨き、賞を獲り、よりよいクライアントを担当し、最後はスタークリエーターとなる。毎日一歩一歩歩いていました。しかし、その道はたくさんの人が歩いていました。スターへの道は大渋滞でした。しかし、歩くしかありません。それしか道が見えていなかったからです。そしてTCC最高新人賞を獲って、スタークリエーターの道が見えました。しかし病気になりました。

 復帰してまたこの道に戻ったとき、もうぼくはこの道を登っていくのは無理だと悟りました。まだ病気が完治していない身で人並みに働くことができなかったのです。ぼくより才能がある人が、ぼくより努力している世界です。勝てるわけはありません。だから、この道からドロップアウトしました。そして、道はないところでもがいていると、自分しかいない場所に辿り着いたのです。自分しかいない場所は楽です。なぜなら、自分一人しかいないから自分はずっと1番なのです。他者にとっても、ぼく以外にその場所の人はいないから重宝されます。ぼくにしかできない仕事が来るのです。競争を勝ち抜くことも大事ですが、あえて、競争からドロップアウトすることもおすすめです。

残る

 ぼくは仕事で「残る」ということをいつも考えています。広告では、新聞では1日で、駅貼りなどの交通広告はだいたい1~2週間、テレビは最長でも3ヶ月ぐらいが寿命です。

 しかしながら、新世界市場のポスターは初掲出してからもう6年経ちますがまだ残っています。未だに人の注目を集めています。新世界市場では初掲出から1年後に新聞の1面を飾りました。それも残っているからありえたことです。文の里も終了から5ヶ月後にネットでバズりました。そして、終了から3年経ってもまだニュースになっています。それもこれも残っているから起こりうることです。

 大野市のプロジェクトもそうです。大野市にずっと関わっていたいとは思っていますが、いつまで携われるかわかりません。だから、大野で極力「残す」ことを考えました。歌を残すこと、ポスター展という仕組みを残すこと、写真集を残すこと、写真と言葉の技術を残すことです。

 同時期にやっていた奈良県桜井市の仕事もそうでした。桜井市にインバウンド訪問客を呼びたいという依頼がありました。とはいえ、世界に向けて桜井市単体だけでやっては意味がありません。広域エリアで手を組むべきだと提案しました。桜井市、天理市、宇陀市、曽爾村、御杖村、磯城郡をYAMATOというエリアにして、それを母体に情報発信するようにしました。そして、YAMATOとしてパンフレットとウェブサイトと動画を作りました。パンフレットもサイトも残る。でもいちばん残したかったことは「市町村を越えて動く」という繋がりで、YAMATOというエリアでした。

「ソフトなハード」これが今の時代にあっているように思います。ハードを残すのは「ハコモノ行政」といわれて批判され、時代にもそぐいません。しかし、しばらく残るソフトを残しておくのは大事です。歌、ポスター、仕組み、?がり。商店街のポスターは商店街がある限りはずっと残りそうです。「大野へかえろう」の歌も毎年歌い継がれています。できれば数十年と数百年と残ってほしい。もちろん、この本も。

 大阪では「お前アホやなあ」は最高の褒め言葉です。それは、「君はなんて規格外でおもしろいことをするんだ」といった意味に近いでしょうか。鹿児島には「ぼっけもん」、大分には「ばかご」、仙台には「ほでなす」という言葉があります。ぼくはいつもアホになろうと心がけています。特に地方活性化の仕事であればより一層。「地域を元気にするのは、若者、バカ者、よそ者」とよく地方創生では語られます。大野でも新世界市場でもぼくは「若者で(そんなに若くないけど)、アホで、よそ者」だから、よい結果を残せた。アホになることが地域を元気にすることであると真面目に思っています。そして、地方を巡り、様々な事例を見た結果、それは真実だと確信しました。

 奥信濃で『鶴と亀』という老人の写真ばかりを収録したフリーペーパーを発刊して、人気を集めている小林くんは、本当にアホです。どうして、田舎の老人の写真だけのフリーペーパーが成立すると思ったのか、本当にアホじゃないとやろうともしないでしょう。

 海外でもアホが町おこしをしていました。台湾の台南市にある正興街というストリートでは、若者がアホな活動をし、5年前はほとんど人通りが少なかった街を今や、台南一のホットスポットにしていました。彼らは商店街ポスター展の「アホでやけくそ」のスピリットも大いに参考にして、彼らなりの町おこしを続けています。彼らにはとても通じるものがありました。
 小林くんの『鶴と亀 禄』の文末に以下のような文章があります。

奥信濃のじいちゃんばあちゃんの魅力はなんですか?
と聞かれたら、生活力がすごいとか、生きる力が強いとか答えていた。
確かにそれもあるんだけど、それが一番じゃないなと思った。
なんというか、奥信濃という決して生きやすくない場所で、
「しょうがねえ」って生きているみたいなところに
グッときているんだと思う。
自分も今、生まれ育った奥信濃で
そんな感じで生きていこうと思っているのもある。
じいちゃんばあちゃんたちは、
どこで暮らすかなんていう選択の機会はあまりなく、
まあここで生きていくしかねえよって
生きてきた人たちがほとんどだと思う。
逆にぼくは、小さい頃から何をしたっていいし、
どこで暮らしたっていいって言われて生きてきた。
便利で自由な時代のおかげで、色んなところにいったり、
色んな情報をネットで見たりする。
でも、どんなに暮らしやすいところだって大変なことはあるっぽいし、
もう「素敵な暮らし」をするために選択しなくちゃいけないことが多すぎて、
若干面倒くさくなってたりする。
だったらもう、この生まれ育った奥信濃で「しょうがねえ」生きていくか、みたいな。
しょうがねえ、しょうがねえって言ってるけど、そんな悲観的でもない。
~中略~
これからもなんとか死なない程度に奥信濃で
「しょうがねえ」って生きていこうと思う。
「じいちゃんばあちゃんみたいに」

「都会に行きたいけど、しょうがねえ、ここでやるか」と覚悟し「だったら、今生きてるこの場所おもしろくしてやる」と開き直ることが、地域を元気にするとぼくは思うに至りました。これは組織にもあてはまります。今いる部署はおもしろくない、他の部署に行けばおもしろいことができるのではないか。今の会社は自分に向いていない。他の会社ならきっと本来の自分のやりたいことができる。確かにそうかもしれません。でも、今、そこでやってみる。それが大事なのではないかとぼくは思うんです。
 じゃあ、今、どうやってやるんだ? それは「照れと遠慮」を捨てて愚かになって、アホになって、行動してみる。それしかないと思うんです。さすれば、道は開かれます。

 大阪、東京、名古屋、仙台、福岡、大分、大野、飯山……それぞれのアホが楽しいことをやって、カルチャー群雄割拠の時代が来たら最高だと思います。「お主やりますな」「お主もやりますな」とお互いリスペクトし合うと、より日本は豊かに、ぼくたちの住む地域は楽しくなると思うんです。ぼくはこれからも大阪という街でなんだかんだとあがいていこうと思います。長くなりましたがまあこの辺で。


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