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エッセイ万歳④ー『徒然草』

はじめに

『徒然草』は、兼好法師が書いたとされるエッセイで、だいたい今から700年くらい前に書かれたものらしい。全243のエピソードからなる『徒然草』は、兼好法師が「つれづれなるままに」書いているだけあって、エピソードによって主張が食い違っていることがある。また、下ネタに近いエピソードもあり、兼好法師は『徒然草』の中で、実は大暴れなのである。国語の教科書には、243もあるエピソードから教育的配慮をした比較的穏当なものが載せられていると考えていい。
今回は、全エピソードから私の印象に残ったものを紹介したい。


印象に残ったエピソード1ー第八段「世の人の心惑はすこと」

このエピソードは、「世の人の心惑はすこと、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。」から始まり、まずはじめに、色欲の怖さを訴えかけられる。そして、このあとに具体例として、「香」の話と、「脛」の話が語られる。「香」については、上辺のものだと分かっているのだけれど、何とも言えない良い匂いには、ついつい胸がドキドキすると書かれている。兼好おじさん、何言ってんだ。
そして、「脛」の話では、久米仙人というおじいさんがせっかく修行をして神通力を得たのに、川で洗濯をする女の人の白い脛を見て、神通力を失ったというのだ。これを読むと、神通力って何だよという気持ちと、どんだけ久米仙人は禁欲してたんだよという気持ちが入り混じって、何とも言えない気持ちになる。
こんなふざけた話が入っているあたり、『徒然草』は憎めない奴である。

印象に残ったエピソード2ー第五十三段「これも仁和寺の法師」

このエピソードは、教科書にも載っていることがある第五十二段「仁和寺にある法師」に続くものである。第五十二段のあらすじは、ずっと岩清水八幡宮を拝みたいと思っていた仁和寺のお坊さんが、岩清水八幡宮の山の麓にある極楽寺を拝んだだけで、肝心の岩清水八幡宮をスルーしてしまうといった感じだ。この話は有名なので、知っている人が多いだろうし、私も知っていた。
しかし、私は知らなかった。この話の続きがあることを。
第五十三段「これも仁和寺の法師」は、ある童が法師になるということでお別れパーティーをしていた際、調子に乗って仁和寺の法師が、足つきの鼎を頭に被ったところ、鼎が頭から抜けなくなってしまったという話である。この第五十三段が教科書には載らないのは、納得である。くだらない、あまりにくだらなすぎる。ちなみに、この法師は最終的に耳と鼻を失って、鼎から頭を抜くことに成功する。グロすぎる。やっばり、教科書には使えない。
仁和寺の法師は、そんなにアホだったのか。それとも、兼好法師は仁和寺の法師に恨みでもあったのだろうか。詳しい人がいたら、教えて欲しい。

おわりに

700年以上経った現代人が読んでも面白い文章を書いている兼好法師は、恐るべしである。日本最大随筆の一つと言われるのも納得である。『徒然草』は肩肘張らずに読めるので、「古典」と敬遠せずに興味があれば読んでみると良いかもしれません。最後まで読んでくれてありがとうございました。


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