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2024/5/14 B→Cに寄せて

https://www.operacity.jp/concert/calendar/detail.php?id=16410

プログラム
J.S.バッハ:ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第1番 ロ短調 BWV1014
シュニトケ:古様式による組曲(1972)
モーツァルト/對馬佳祐 編:アヴェ・ヴェルム・コルプス K.618
エスケシュ:いざ来たれ(2001)
三善 晃:ヴァイオリンのための《鏡》(1981)
土田英介:組曲 ─ 無伴奏ヴァイオリンのための(2024、對馬佳祐委嘱作品、世界初演)

本プログラムではバッハとその時代を源流とした、モダニズムの多様性に焦点を当てるのが目的となる。つまり、バッハから出発して現代への音楽の変遷を時代順に追うのではなく、後世の作曲家たちがそれぞれの時代や感性を通して過去に見出していたものを探っていく。


バッハ:ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第1番 ロ短調 BWV1014
バッハの無伴奏ヴァイオリン作品ではなくあえてこの室内楽作品を選んだ理由として、通奏低音からの脱却という書法の面でより普遍的な影響を後世に残している点、さらにバロックヴァイオリンとチェンバロの、その時代特有の音響的特色を含め今回のプログラムの趣旨により適っているという点が挙げられる。
この曲が書かれたケーテン時代のバッハは器楽の権化ともいうべき充実ぶりを示している一方で、そこには強烈な教会音楽への渇望が内包されているようにも感じられる。ヴァイオリンは声楽のように歌い、チェンバロの響きはオルガンのように空間を満たす。

シュニトケ:『古様式による組曲』 (1972)
非常に奇妙な音楽である。音楽構造の複雑化と調性の解体を一通り経験した上でバロック音楽の持つ音色や音響をあえて新奇なものとして扱った、20世紀ロシアのシュニトケによる作品。この作品はシュニトケ自身が楽器編成をヴァイオリンとピアノまたはチェンバロとしており、当プログラムではチェンバロを用いた演奏で取り上げる。古楽の復興が進み、すっかり耳慣れたものになった21世紀の私たちの感覚からは想像もつかないほど、1970年代の人にとってこのようなヴァイオリンとチェンバロの疑古典様式の音楽はいびつで鮮烈なものとして映ったことと想像する。ましてや当時ロシアにおいて古楽はまだ珍しいものであった。時代も土地も隔絶された故の仮想現実のような古楽が、シュニトケの感性を通じて不気味に鳴り響く異色の作品である。

モーツァルト:アヴェ・ヴェルム・コルプス K.618
バッハを規範とした作曲家たちは数多くいる中で、晩年のモーツァルトのこの名高い合唱曲を拙編曲による無伴奏ヴァイオリンの形で取り上げる。バッハから多くを学んだにも関わらずモーツァルトが決して手掛けることがなかった無伴奏ヴァイオリンへの挑戦である。
この編曲はかつて私がパリで路上演奏していた際に見た、教会の中と外を隔てる一枚の扉から着想を得ている。ふたつの空間は決して混ざらず、観念上も物理的にも明確に分離される。この曲においても、教会音楽の象徴たる合唱と世俗的な楽器であるヴァイオリンをその扉のメタファーと見做すことはできるだろうか。

エスケシュ:いざ来たれ(2001)
バッハと同じく作曲家・オルガニスト・即興演奏家であるフランスのT. エスケシュ(1965~)による無伴奏ヴァイオリンのための作品。これはバッハのコラール前奏曲『Nun Komm(いざ来たれ)BWV659』の動機音型をコラージュした作品で、当プログラムのテーマであるバッハを源流とするモダニズムの、21世紀における一つの答えとして考えた一曲である。
エスケシュの音楽語法は一貫して気楽であり、空洞化されたバッハの主題はもはや鼻歌のように宙に消えていく。

三善晃:無伴奏ヴァイオリンのための『鏡』(1983)
あくまでこの作品はバッハ、イザイ、バルトークとつながる無伴奏ヴァイオリン様式の延長として書かれているように思う。その点、同じくバッハを源流とする先述のエスケシュやシュニトケとはあまりにも異なる道のりを辿っており、ここに当初の目的であるモダニズムの多様性を見出すことができると考える。
バッハからこの曲に継承された要素として、無伴奏ヴァイオリンという演奏形態を「静寂という伴奏を背負った」様式と見做しているかのような音響的趣向がある。ここでは孤独な寒々しさを隠さず、むしろ積極的に情緒表現に組み込む手法が見られる。

土田英介:組曲〜無伴奏ヴァイオリンのための
氏のこれまでの作品、そして著書『バッハ 平均律クラヴィーア曲集 演奏のための分析ノート(全2巻)』の精緻かつ想像力豊かな内容に大変感銘を受けた。今回、ヴァイオリンの可能性に挑戦すべく長期間にわたって土田氏と議論を重ね、偉大な作品として結実したと感じている。私にとって土田氏は無尽蔵な音楽への愛情を持つ、並外れて感性豊かな音楽家であり、また誠実で勤勉な人格者でもある。
土田氏のヴァイオリン書法は非常に直感的でロマンティックな感覚に支えられているように思う。それは耳と情感の純粋な結びつきを聴き手に要求し、調性や形式、時代背景などのあらゆる音楽的文脈を超越する。私はその飾り気のない一心不乱さにいつも心打たれるのである。

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