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バッハとヴァイオリン

バッハはまずオルガンとチェンバロの名手として知られていたのと同時に、ヴァイオリン奏者でもあったといういくつもの証言が残っている。しかし、対位法音楽(複数の旋律を同時進行させる音楽)の大家であったバッハの音楽が、ヴァイオリンやチェロといった旋律楽器よりも、チェンバロやオルガンのような鍵盤楽器と親和性が強いことは明らかである。そういった事情の中で、バッハのヴァイオリン作品、とりわけ無伴奏ヴァイオリンのための作品がどのような特色を示しているのかを見ていきたい。
バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ(全6曲)」は、パガニーニの「24のカプリース」とともに、今日ヴァイオリン1本で演奏される最重要レパートリーとして認識されている。これらの作品に共通する点として挙げられるのが、ヴァイオリンにとっては難技巧とみなされる重音奏法(2本以上の弦を使い同時に複数の声部を演奏する奏法)を多用していることである。これは、独奏楽器としてのヴァイオリンが、通常ピアノや管弦楽による伴奏に頼って音楽を成立させる部分が大きいのに対し、ここではヴァイオリンのみで音楽的充足を補完する必要があることから生じていると考えられるだろう。しかし、ヴァイオリンという楽器が単旋律楽器として非常に自由度が高く優れている反面、重音奏法には非常に制約が多いことを踏まえると、無伴奏ヴァイオリンという演奏形態の利点を積極的に活かす手段として、重音奏法によって果たして高い演奏効果が得られるのか、一考の余地がある。ヴァイオリンにおいては4本の弦のうち1本のみを鳴らすことにより単旋律を得られるため、他の弦に触れないように駒(弦を支え、楽器の箱にその振動を伝える木製の部品)にカーブがつけられている。従って同時に鳴らし続けることができる弦は2本までであり、3本ないし4本の弦を鳴らすには和音を分散することが強いられる。その上、左手のポジションで捉えられる範囲の特定の和音の組み合わせでしか使うことができない。
バッハと同時代の作曲家、テレマンによる無伴奏ヴァイオリンのための「12の幻想曲」がこの疑問に対するヒントとなる。テレマンは単旋律を中心に、聞き手が音楽の進行を見失わないために必要なリズムや和声の要素を配置し、その中で自然に重音奏法を取り入れられる場合に限り、装飾的に重音奏法を用いており、結果ヴァイオリン作品として非常に演奏効果の高い流麗な音楽を生むことに成功している。
一方で、ヴァイオリンの超絶技巧の代名詞的存在であるパガニーニの「24のカプリース」では、重音奏法を難技巧の披瀝としての表現に特化させており、その根拠として、オクターブや3度の連続といった、和声的あるいは対位法的な音楽的充実と直接結びつかない技巧を多用している点が指摘できる。パガニーニによって推し進められたそれらの奏法はヴァイオリンという楽器の可能性を一気に増大させ、のちの作曲家達によって純音楽的な表現と楽器の機能性が結びつき、昇華されていくことになった。
これらのことを鑑みてバッハに話を戻し、「制約の中で音楽としての表現を追求する」ことがバッハにとって重要な命題であったという仮説を立ててみたいと思う。一つの主題を執拗に展開し対位法技術のカタログを打ち立てた「フーガの技法」、さらには左右両方から同時に一つの楽譜を演奏することで音楽を成立させる鏡像カノン等の、ある種曲芸的な作曲技法をも披露している「音楽の捧げもの」といった作品を通して、どこか遊び心を帯びた作曲技術の極限への挑戦のような側面をバッハが見せていることは注目に値する。そもそもバッハが「音楽の父」と呼ばれる所以は、彼がドイツの伝統的な音楽を継承しつつ、フランスからの影響による舞曲組曲や、イタリアから伝わった合奏協奏曲、教会ソナタといった様々な音楽様式を総括し、それらをさらに高度な芸術作品として昇華した点にある。つまり、バッハにとって作曲技法、もしくは音楽様式や楽器の機能といった様々な「制約」はむしろ彼の創作意欲を掻き立てる起爆剤のようなものであったのではないかと想像される。
4楽章からなる伝統的な教会ソナタと、舞曲組曲であるパルティータの枠組みの中で、さらに楽器の性能上の制約が課される無伴奏ヴァイオリンのための創作は、「4本の弦でどこまで表現できるか」というバッハにとっての大いなる挑戦であり、また創造的な遊びであったことだろう。そのような視点でこのソナタとパルティータを見たときに、確かに先述のテレマンやパガニーニとははっきり異なる唯一無二の存在として、バッハの無伴奏ヴァイオリンのための作品に込められた理念が浮かび上がってくる。数学に精通していたバッハにとって、古代ギリシアの時代から言われていたように、音楽は数学そのものであった。ヴァイオリンという5度調弦、すなわち隣り合った弦がそれぞれ2:3の振動数比をなすように張られた4本の弦を使って音楽を作る。なんと知的好奇心を刺激する魅力的な試みであろうか。特定の振動数にドレミ等の音名を割り振り、定められた拍節の時間を占める割合から4分音符、8分音符といった名前をつけ、それらを組み合わせて秩序と調和を生み出す音楽が、この世の理を数字で表現することを目指す数学と同じく、数を扱う学問としての存在であることは疑う余地がない。
バッハの音楽が示す時代を超える普遍性は、このような知的な創造性に裏付けされている。理知的であることが無味乾燥さ、生硬さと一体であるという誤解が万が一あればここで取り払わなければならない。そこにどれだけの情熱が注がれてきたか、その強い思いを感じ取ることができれば、バッハが学問と芸術というふたつの概念が決して矛盾しないことを示した偉大な先駆者であると気が付くことになるに違いない。今日バッハの音楽の価値が決して薄れることがないことの本質はそこにある。

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