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バロック時代のヴァイオリン奏法における一般

ヴァイオリンの奏法を考える上で、バロック時代(17世紀から18世紀前半)はその開始点にあたる。前提としてヴァイオリンをはじめ楽器の演奏様式というものは最終的に個々の奏者の個性に由来するものであり、ゆえに時代ごとの演奏様式を定義することは非常に困難である。例えば仮に特定の具体的な演奏方法を想定した楽曲が書かれていたところで、それが必ずしも後世の私たちにとって都合よく、その時代の演奏様式を指し示していると考えることはできない。ロマン派・近代のヴァイオリニスト兼作曲家であるパガニーニやイザイの作品のように、明らかに楽譜というよりヴァイオリン演奏法の指示書とも言うべき緻密さで作品(の譜面)が残されている場合でさえも、わかるのはその作曲家個人の観念的なヴァイオリン演奏像でしかなく、この議題に関する限り楽譜はあまりにも断片的な情報しか与えてくれない。

もし時代の演奏様式をある程度定義づけることができるとすれば、それは18世紀末にフランスのパリ音楽院ヴァイオリン専攻が創設され、近代ヴァイオリン奏法が生まれた時だろう。ここで初めて、限定された地域においてではあるものの、ヴァイオリンの演奏法と教程が体系化されたこととなる。それ以前にもタルティーニやジェミニアーニといった後期バロックのイタリアのヴァイオリン奏者たちが奏法についての著作を残してはいても、その時代の演奏様式における価値観を打ち出し、それに則った演奏家たちを養成する土壌を作るには至っていないし、L. モーツァルトの教則本に至ってはアマチュア音楽家のための音楽の手引きという側面が強く、ここでは考慮の対象にならない。パリ音楽院のヴァイオリン奏法が生まれてから、19世紀末に録音技術が発明され現代の私たちがその演奏に直接触れることができるようになるまでに約100年の隔たりがあり、この期間にどのような奏法の変遷が起こったかは非常に興味深いテーマであるが、それはまた別の機会に譲ることとしたい。ここでの本題はそのパリ音楽院以前のヴァイオリン奏法について考えることであり、そのためにまず、時代ごとの演奏様式を探るには上述のような複雑な事情がつきまとうことに留意する必要がある。まとめると、現在最終的にわかるのは時代ごとに各作曲家がヴァイオリンをどのように用いたかというごく局所的な点に過ぎず、それを踏まえた上でなお気が付くいくつかの要素について覚書としてここに記す。

まず楽譜に残されている最初期のヴァイオリン作品の一つであるタルクィーニオ・メールラ(1595~1665)の器楽カンツォーナ(1637)からいくつかの曲を見る限り、声楽と比較した際にヴァイオリンの持つ利点を生かすことに主眼が置かれているように見えるが、それは具体的には主に音域の広さと機動性である。この時点ではまだ音楽史的にも器楽ソナタの黎明期であり、器楽は声楽の延長上として捉えられていたことがうかがえる。ビアージョ・マリーニ(1594~1663)、マルコ・ウッチェリーニ(1603~1680)、ジョヴァンニ・アントニオ・パンドルフィ=メアッリ(1624~1687?)といった作曲家たちの作品においても基本的には同様である。ここではまだ、後に主流となったヴァイオリンの機能的な特性を表現に組み込む手法は見られない。

バロック時代のヴァイオリン演奏技法を二つの時代で分けるとしたらアルカンジェロ・コレッリ(1653~1713)以前とそれ以後ということになるだろう。それほど、コレッリの影響力は絶大であった。コレッリによって生み出されたヴァイオリンの演奏様式は、ジェミニアーニやロカッテリといった弟子たちに継承され大きく発展していくことになるが、コレッリ自身は名人芸的な演奏技巧を前面に打ち出すことにはむしろ消極的で、コレッリの業績はむしろ合奏協奏曲や器楽ソナタなどヴァイオリンがより華々しく活躍できるような音楽形式的土壌を確立したこと、そして独創的で才能豊かな多数の弟子にヴァイオリンの演奏技巧の発展の可能性を託したことにある。そしてそれは大成功した。ジェミニアーニはヴァイオリンの演奏における「良い趣味」を追求し、装飾法や旋律の歌い方を子細に解説することで大きな業績を残したし、ロカテッリはヴァイオリンの難技巧を極端に推し進め、限りなく不可能に近い跳躍や手の拡張、重音奏法などを用いて後のパガニーニの先駆者となった。

コレッリ以降、バロック時代に生まれた代表的な演奏技法として、重音奏法、特に和弦を分散して演奏する運弓法が挙げられる。また、開放弦を保続低音として活かす手法も組み合わせて多用される。左手のポジション移動については、バッハやヴィヴァルディが積極的に用いた、反復進行で高音から一つずつポジションを下っていく技術が、顎当てが無かった当時のヴァイオリンと親和性が高く、これも典型的なバロック時代の奏法である。このように、楽曲の構造とヴァイオリンの技術の統合が行われたのが後期バロックのヴァイオリン音楽に見られる特徴であるといえるだろう。

ビーバー、ピゼンデル、バッハと続く、ドイツ・バロック音楽に見られるヴァイオリンの機能性を明確に意識した作曲法は20世紀になってようやく再評価が進んだ非常に手の込んだもので、それだけ当時としては先進的であったことがうかがえる。19世紀のヴィルトゥオーゾ文化の成果が音楽の複雑化に対応するための楽器用法の発展であったこととは異なり、バッハはすでに18世紀前半の時点でヴァイオリン音楽を、歴史を持った一つの完成された様式として扱っているようだ。何故ならバッハは彼の望んだ音をヴァイオリンで完全に実現しているからであり、平たく言えば、バッハが例えばパガニーニのように書かなかったのは、それができなかったからではなく単にその必要がなかったからである。ここにバッハの純ヴァイオリン的観点からの時代を超えた普遍性を見ることができよう。

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