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「北欧の教育は創造的である」を少し科学する

僕は人並み以上に「学習」という言葉と向き合っているが、ワークショップを通して学習と変化の場に携わる中で「学習とは何か」が分からなくなり、オフィスにある本を読み漁ったり、ボスを捕まえてあれこれ聞いていた。

ある研究者によると、学習は、いくつかの類型に分かれる、という整理がある。

詳しくは割愛するが、「ゼロ学習:全く試行錯誤がない状態」「学習I:所定の文脈でのみ正しい条件反射の獲得」「学習II:条件反射を生み出している文脈の深い理解」「学習III:現在の文脈を捉え直し、新たに文脈を構築する過程」に分かれる。

例えば、100マス計算を与えられた小学生は、最初100マス計算はどういうルール/手順で行われるか理解しようとする。つまり、文脈を深く理解しようとし、学習IIが起きる。一方100マス計算を繰り返すといずれ条件反射で回答できるようになるので、学習Iしか起きなくなる。

学習Iに飽きた小学生はどうするだろうか?もしかしたら、隣の生徒とどちらが早く回答を追えられるか競争するかもしれない。「競争に勝つためには」という新しい文脈が加わると、そのために記入する順番を工夫したり、苦手な部分を暗記で補うなど、再度学習IIを起こすだろう。

一方学習IIIでは、現在の文脈を捉え直し、新しい文脈を構築する。100マス計算をエクセルの演習と捉え直し、自動計算のシステムを構築するのがこれに当たるだろう。


週末、オランダ・デンマークの教育についてnoteを書いた。

文中で扱ったこの事例を見返すと、

例えば、ある学校でのエピソード。学校に通い授業を受けることに疑問をもった小学四年の生徒がいたそうだ。「何で学校に行かなきゃいけないの?」その疑問を聞いた先生は「じゃぁ君は何なら興味があるの?」と尋ね返した。生徒は「車は大好き」と答えた。それを聞いた先生は地元のカーディーラーに交渉し生徒をインターンとして受け入れてもらった。

しばらくしてから生徒が先生のところに来て「算数について学びたい」と言いだした。先生がその理由を尋ねると「僕は計算ができないから、車の数も分からず、みんなの役に立てない。だから算数を勉強したい」と答えた。「それなら算数の授業がある日だけ学校に来る?」と先生は答え、大きく頷いた生徒はその日から算数の授業がある週2日間、学校に通うことになった。


「なんで学校に行かなきゃいけないの?」という文脈を問い直す質問(学習IIないし学習III)に対して、「あなたの義務だから」と先生が答えるケースが多いのではいだろうか?そうすると、生徒は学習Iしか生み出せなくなる。

一方、この例だと先生は「何なら興味があるの?」という質問から、「車は大好き」という答えを引き出し、カーディーラーのインターンに送り出している。この時点で、生徒にとっての「学校」がどのような文脈に置き換わるか分からないことを許容し、学習IIIを生み出そうとしている様子が伺える。

後半、先生の意図通り(?)生徒は学校に戻ってくるが、個人的にしびれたのはこのやりとり。

「それなら算数の授業がある日だけ学校に来る?」と先生は答え、大きく頷いた生徒はその日から算数の授業がある週2日間、学校に通うことになった。

ここで、僕が先生なら「ほら、勉強は役に立つでしょ?明日から学校に毎日きなさい」と言ってしまうだろう。そうではなく生徒が新たに作り出した文脈を精緻に理解し、その文脈の中でのみ(算数の学びのためにのみ)、学校にきたら?と提案している。

事例の先生は、生徒が自ら文脈を生み出せる=学習IIIを起こせるという信念をもち生徒と接しているのだなと感じ、しびれたエピソードだった。

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