必要とされること

人は本来誰かに必要とされたいものだ。

誰だって認めてもらいたいし、それを否定することは自分に嘘をつくことになる。

大学時代は承認欲求にまみれていた。認めてもらいたくて仕方なかった。

高校までは勉強に熱狂していたため、他人に向く感情が一切なかったが、大学に入ったら一気に周りへの視界が見えるようになった。遅めの思春期だ。

ずっとだれかに必要とされたかった。しかし遅咲きの大学デビューを果たそうとするコミュ障には高いハードルだった。人と話すこともままならない。被害妄想と緊張と極度の人見知りで、心の中はだんじり祭りだ。それが普通に会話を交わせるようになるまでには3年の年月がかかった。

周りではそんな自分の悩みとは裏腹に、周りに友達がたくさん集まるやつらがいた。それを見てはうらやみ、妬んだ。そして自己嫌悪に陥る日々だ。おれがいくら頑張ってもなぜ人がよってこないのだろう。そうやって悶々と考える日々は長く苦しい。誰にも相談できるわけもなかった。残酷な世の中だと思った。いっそ自分の殻にこもって一歩も外に出たくなくなるときもあった。

おれは誰かに自分という人間の存在を認めてほしかった。そして人の役に立ちたかった。それは認めてもらうという承認欲求でしかないのだが、別におれだけが悩んでいることではないと思う。

大学まで生きてきた23年間、だれかの役に立ったことはあまりなかったと思う。ただなにもなく普通に生きてきただけだった。そんな人生をどこか退屈に思っていたり、不完全燃焼感を否めなかったりした。それに気づいてはいながらも、特になにも行動なんて起こさなかった。どうしたらいいかわからなかったからだ。

時はたち、ベトナムにいる。しかもこの世界遺産都市ホイアンには日本人は本当に希有な存在だ。いるだけで特別感を煽る。しかもそこに一部日本人を熱烈に愛し、求める人たちがいる。それは日本語学校の生徒だけではなかった。人伝いや偶然の出会いから、どんどん交友は広がっている。今もつながり、日本語を勉強したいのだというベトナム人は少なからずいることに気がついた。

これでは好きなことをやっているというより、「マーケットのニーズに合わせている」に過ぎないのだが、こんなに自分を必要とされたことはない。日本語を学びたい人がいるからそれに合わせて教えているだけでは、まだまだ甘いのかもしれないが、必要とされていることに全力で応えるようにはしている。ただ相手が求めることだけではなく、加えてこういうのあったらうれしいかなというプラスαを毎回提供するようにしている。

これが社会に貢献するということなのかもしれない。英語が話せれば充分のはずなのだ。人とコミュニケーションを図るだけならば。でもその上で難しいと言われる日本語に果敢に挑戦しようとするベトナム人たちがここにいるのだ。

僕はそのベトナム人を探し出して、友達になりたい。そして提供できることをする。彼らの夢を助けるサポートをしたい。

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