映画『ジョーカー』感想

遅ればせながら映画『ジョーカー』を観てきました。
結論から言うと「良作で名作であるが、感動しない(特に心が動かされない)」でした。

役者の演技も素晴らしい。演出も良い。映画の構成要素1つ1つには何の文句のつけようもないので、間違いなく良作だと言えます。
しかし、なぜ感動しなかったかといえば、「現実を超えられなかったから」、この1点に尽きるでしょう。
社会に復讐を誓うに値するほどの残酷な境遇……ですが、私は本作と同等かそれ以上に残酷なノンフィクション作品を知っていますし、「作品」ではなくて「現実に存在する事案」も知っています。
フィクションとは、想像力の翼を羽ばたかせることで(デフォルメされたある一点において)現実を超越してこそのフィクションです。「事実は小説より奇なり」ではありませんが、事実が上回ってしまっては存在理由がない。

と、まあ、ここまでは本作を下げてきましたが、それでも「『普通』の人が落ちてゆく」姿の表現は見事でしょう。
仕事を失い、公的福祉を打ち切られ、親子の絆が絶たれ、恋人は幻想だった……ヒトを社会的に人たらしめている基盤(足場)が一枚、また一枚と抜け落ちていく。土台を支えるネジが一本はずれると、他のネジにも負荷が集中し、次々とネジがはずれていく。
「底が抜ける」。「居場所」を失う。

「失うものが何もない」人のことを、最近の日本では「無敵の人」と呼びます。
失うもののある「普通」の人であったアーサーが、それらを失うことによって「無敵」のヴィラン、ジョーカーになる。失って、落ちていく物語であるのに、一方でそれこそが彼を強化し、ジョーカーとして覚醒させる。皮肉は最高に効いているんじゃないですかね。

ところで、本作は単品で言うと上記のような評価になりますが、バットマンシリーズの一部としてはどうなのか。私はバットマンシリーズをそんなにたくさん観てはいませんが、例えば『ダークナイト』に登場するジョーカーの過去として、本作は妥当かどうか?
スーパーヴィラン・ジョーカーは単なる精神異常者でないことはよく知られていますが、さりとておかしてきた犯罪の数・規模・残忍さはとうてい「常人の理解の及ぶところではない」。であるのに、そのような巨悪が誕生した経緯が、これほどに「理解しやすいもの」であって良いのでしょうか?
例えば、スーパーマンの非常識な怪力の理由を「毎日6時間、欠かさずトレーニングをしたからさ」と常識的に説明されても納得できないのと同様に、ジョーカーの精神性を「社会に虐げられたからさ」と常識的に説明されても、かえって納得できません。

感動はなかったと言ったものの、個人的に一番ぐっと来たシーンは、アーサーが母親を絞殺したシーン。
私の見間違いでなければですが、母親のペニーはナースコールを握っていたにもかかわらず、それを押さなかった。
親子の愛はお涙頂戴の定番と分かっていながらも、やはり親の愛情というものには心を揺さぶられずにはいられない。ナースコールが押されて、アーサーがあの時点で逮捕されていたとしたら、ジョーカーとしての覚醒はどうなっていただろうかという「たられば」も含めて、複雑な気持ちです。

今回はこのへんで。御覧になられた方がいらっしゃれば、感想をお待ちしております。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?