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自分の欲望・煩悩に正直で何が悪いんですか?


こんばんは

小久保昌代です。


少しメッセージが空きました。


いかがお過ごしだったでしょうか?


さて、先週の土日のホテルライフは、

お陰様で充実した2日間となりました。


ホテルに持ち込んだ一冊の本がありました。

沢山の本の中で、私が敬愛している一冊です。



「悟りの教科書」 荒 了寛 + 苫米地英人著
煩悩力を生かせ


「苫米地式コーチング」は現代科学の基礎となっている「認知科学」を応用した、
実践的なコーチングメソッドであるということは

何度かメッセージの中でお伝えしてきました。



苫米地式メソッドの中に、実は仏教哲学も含まれます。


私が昔持っていた「仏教」というイメージは

「厳しい修行する生き方」というイメージでした。


それは、おそらく、子供の頃から、お寺を営んでいた

祖父の実家のお話を小さい頃から聞いてきた私だったからだと思います。


さて、では
みなさんは仏教というと、どのようなイメージをお持ちでしょうか?


その部分をこの書籍の中から引用させていただき、

なぜ、コーチングと仏教の関連性があるのか?

というところを今日はお伝えしていきたいと思います。


(長いメッセージとなりますので、お時間のある方だけお付き合いください)



では引用を開始します。

(引用開始)

プロローグ

この本を手にしたみなさんは、「仏教」に対して
どのようなイメージを持っておられるでしょう。

大きく言えば、それは二つに分かれるでしょう。

一つは、「葬式仏教」という言葉に象徴される、単なる儀礼、習慣としての
古臭いイメージ。

そしてもう一つは、チベット仏教などの密教系の仏教に対して抱く、
神秘的なイメージ。

現代日本での仏教のイメージは、だいたいこの二つに集約できると思います。

しかし、本書で扱う「仏教」とはこの二つのどちらとも全く違う「仏教」です。

それは言うなれば、最先端の科学に通じる「世界観としての仏教」
現代社会を生き抜くために必要なフレーム・ワークを与えてくれる
「思考哲学」としての仏教」です。

仏教は単なる宗教ではなく、今を生きるために必要な
「脳の使い方」を教えてくれる、偉大なる知の体系であるというのが
私の考えです。

このことは、本書の中で詳しく語りますが、現代の最先端科学
とりわけ物理学や数学、あるいは現代分析哲学といった分野の研究者たちは
みな仏教的な世界観の中で生きています。

彼ら自身は自分が仏教徒であるとは思っていないかもしれませんが
最先端の科学と仏教とは実に親和性の高い関係性にあるのです。

(中略)

「神の不存在」が証明された

しかし、そうした「全知全能の存在」という過程は、量子力学の祖でもある
ハイゼンベルグが明らかにした「不確定性原理」、数学者のクルト・ゲーテルが
明らかにした「不完全性定理」などによって、完全に打ち砕かれてしまいました。

人間の理性がいかに発展しても、世界の姿を完全に明らかにすることはできないことが証明されてしまった。

さらに、1991年には哲学者パトリック・グリムが「神の不存在」を証明してしまいます。

数学者グレゴリー・J・チャイティンが、数学全体に「不完全性定理」が働くことを
証明したことを受けて、グリムはキリスト教やユダヤ教で信じられているような
「全知全能の神」の存在を証明することは、論理的に不可能であるということを
示したのです。

「唯一絶対の存在などありえない」というのは今や世界のまっとうな学者ならば
誰もが共有している認識ですが、そうした認識が共有されることになったのは、
実は、ここ数十年のことに過ぎません。

ところが今から2500年以上も前、近代科学というツールを用いることなく
この最先端の知見と同じ結論を得た人がいます。
それが仏教の創始者である釈迦です。

釈迦(ゴーダマ・シッタールダ)は数学も物理学も使わずに瞑想という
思考実験の身によって現代の最新科学と同じ結論に達しました。

(中略)

その釈迦の教えはあくまでも、この現世でどのように生きるべきか
ということであり、いわゆる「あの世」や「天国」に行くことを目的としていません。

(中略)

釈迦が「今、どのように生きるべきか?」であって、死後のことに
心を煩わせるのは意味がないと考えたからです。


(引用終了)


私はこの本を初めて手にした時、なぜ仏教哲学と
コーチングに関係性があるのか?

ここをまずは知りたかったからでした。


そしてこのプロローグを読んだ時
衝撃だったのは、釈迦の説いた「今を生きる」という部分です。


これは、いつも皆様にお伝えしてきている

苫米地式コーチングのエッセンスそのものでした。


この本を読み進めていく時

私の大好きな逸話が載っています。

【毒矢のたとえ】という有名な逸話です。

ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。


「もし、毒を塗った矢が飛んできて身体に刺さったとしたら、そのとき

『この矢はどこから飛んできたのか?』

『この毒の種類は何だろうか』

『誰が射たものだろうか』

などと考える前にやるべきは、その矢を身体から抜くことです」



という部分です。


これは、私が30代から現在の年齢至るまで

経験として積み上げてきた生き方そのものだったからなのでした。


占いから始まった相談業務も、そしてコーチングのセッションも

多くの方が、

『この矢はどこから飛んできたのか?』

「この不満な現状はなぜ起きたのか?」

『この毒の種類は何だろうか』

「この満たされない現実は、どういう種類の不幸なのか?」


『誰が射たものだろうか』

「誰によって私の今の考え方が出来上がってしまったのか?」

この三つを追求し、現状維持を自らしていることに

お気づきになっておられない、または

気がついていても、現状を変える気持ちがない

という皆様が多額のお金と時間を費やしていた

現場をまざまざと実際に見てきたという経験があったためです。



しかし、私の活動するこのコーチングは

現状打破にどとまらない世界基準の脳と心の使い方なわけです。


釈迦の「毒矢のたとえ」の

「考えるよりすぐに体から矢を抜くことが先決」

というのは

言い換えると

「何も変わらない現実に対して考えあぐねるのではなく
実際に行動して経験してみて」

ということを伝えたかったであろうと私は解釈しました。


そこに苫米地式コーチングのエッセンスを付け加えるとすると

現状のゴールを作ることにより、はるか遠くの未来をしっかりと

見ることによって初めて脳がクリエイティブに働き始めるといことを

体験としてこの10年間の間に確信したわけです。



またこの著書は

煩悩、欲求は閉じ込めるのではなく

最大限に活かそうとも書いてあります。



よく、新しい行動を閉じ込める

「罪悪感」という言葉を使う自己啓発系のセッションがあったりしますよね。


この本を何度も熟読していくと、全ての望みに対して

「罪悪感」など全く必要ない、壮大で伸び伸びとした人生を

送るための哲学が仏教哲学であるということが理解できるのでした。



今の目の前のことを解決することは大事なことです。



その解決、目の前のことから片付けるという

ステップバイステップのゴール設定では

残念ながら思うようにならないのが人間の本来持つ脳の特性だったりします。



コーチングを学び始めた皆様

コーチになろうと決めている方

現役のコーチの皆様

そして、もちろん私も含め


なぜ、今、現状の外のゴールが最も必要なのかを

興味があれば是非考えてみてください。



そして、お伝えするまでもなく

煩悩欲望は閉じ込めるのではなく

自分と他の世界と包摂した

「利他」から生まれるエネルギーのほうが

脳はクリエイティビティーを最大に発揮することを

再度お伝えしておきますね^^



「煩悩の教科書」はスーッとあなたの意識の中に入っていく

おすすめの一冊です。



いつもになく長いメッセージとなりました。


あなたのゴール達成を心より応援しております。

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