ある一家のこと

 彼は南に向かってひたすら歩いた。
 8月15日、彼の住んでいた場所は彼の国ではなくなった。もはや、この地に暮らせなくなった彼は自分の国に戻らなければならなかった。
 だが、それは容易いことではなかった。
 大日本帝国の敗北により日本の統治から解放された朝鮮は、現在、文字通り無政府状態になってしまった。
 彼の住んでいた地域には共産ゲリラがやって来て、日本人はもちろんのこと、自分たちと考え方が異なる朝鮮人も殺してした。彼の友人や知人の朝鮮人たちも殺されてしまった。
 交通手段はないため徒歩で、ゲリラを避けながらの旅は並大抵のことではなかった。
 食糧も尽きた彼はついに倒れてしまった。 

 気が付くと彼は布団の中にいた。
「よかった、気がついたね」
 朝鮮語で傍にいた男性が声を掛けた。その隣には、妻らしき女性と彼と同年代の少年がいた。
 彼は起き上がると礼を言い、出て行くと朝鮮語で告げた。
 夫婦と少年は引き留めた。彼は、自分は日本人だと言ったが、それでも「今は治安が悪いから出ない方がいい、暫くここにいなさい」と彼を押しとどめた。
 空腹で疲れ切っていた彼は一家の言葉に従った。
一家は彼の面倒をよく見てくれた。それに応えて彼は農作業等、一家の仕事を手伝った。息子の少年とも親しくなり、さまざまなことを話し合ったりした。
 こうして一年くらい過ぎた頃、治安も回復したため、彼は日本に行くと言った。
 一家は、まだ世間は物騒だからもう少し待ったらどうか、いっそのことこのままウチの家族にならないかと言って引き留めた。
しかし、彼は、自分には父がなく、先に日本に発った母親と妹のことが心配だと言って一家を説得した。
 いよいよ出発の日、一家は大きなおにぎり二個と路銀を彼に持たせた。
 一家は彼が無事に日本に着くことを祈りながら見送ってくれた。
 その後、何とか釜山まで辿り着いた彼は、日本に行く船に乗り込んだ。
そして、日本に着くと生まれ故郷に向かった。
 村の入り口に来た時、自分に向かって手を振る少女の姿が見えた。妹だった。


#歴創版日本史ワンドロワンライ  12月28日 お題:家族
敗戦後、朝鮮にいた日本人たちは祖国に引き揚げることになりました。引き揚げ体験記は多くありますが、その中で筆者が読んだものに出てきたエピソードをもとに書きました。

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