うまい飯の為の心の在り方

まずデブの道楽について、ありがちな勘違いを解くところから始めたい。
美食という行為自体は、美味いものを食べれば無条件に楽しいわけでは無い。楽しむ為には、食事自体を楽しもうという意思が必要になる。
貴重なものであれ、高価なものであれ、意思なき美食に価値は無い。

食べたものを味わう、そして理解する為には経験し学ぶ事が大事だ。
事実、人は食事について語る時、人生でもっとも美味しかったものや、わすれられない料理を語りたがる。確かに、それらは人生を語る上では必要だ。
しかし本来「食事」について語るのであれば、もっとシンプルに日常的に食べているもの、食べたいものこそが主題になるべきだと考えている。
一汁三菜が分かりやすいが、まず料理があり、さらに組み合わせというものがある。

その基準に則ると、素材そのものというのは料理では無いと個人的には思う。
人生で最も美味しかった物として胡瓜が出てくれば、それは経験を食べている。
日常的に食べるもので最も美味しいものが胡瓜だと言われてしまうと、その人は素材を食べているだけで、食事をしている訳ではない。

魯山人は素材こそが全てを決めような話をしているが、素材の良さを活かすという話と、料理の価値を引き上げるために素材にこだわるというのは全く別のである。

食材をそのまま食べるのは勿論、生のままだと危険なもの等を食べられるものにする、というのもまた可食の為の第一段階の処理である。

調理とは素材から料理へと変化させ、新しい価値を与えることだ。
過去から今日まで時代を超え、人の手を渡り、連綿と続いてきた人の叡智「調理」というものこそが活かされると思う。

飯にしろ、人の評価にしろ、素材が良いことは大事だが、評価基準がそれだけでは味気なさすぎる。
人の手が入るということに、どれだけ価値を感じ取れるかが別れ目といっても良いだろう。
では、その調理過程の価値を知る為に必要なことはというと、やはり自分でやってみることだろう。
食事を趣味にしたい方はぜひ、自炊として食べる物ではなく、美味しいと思うもの、を自分で料理をすることをお勧めする。
調理、その価値を知る事だけでなく、自分の味の好みを深く知ることもできる。
自分の好みを知ることが、食事を楽しむ為の第一歩だ。

物を食べるという行為からは、生きてる限り逃れられない。
ぜひ、腹を満たすだけではなく、楽しもうという意思を持って、日々を過ごしていただきたい。

#エッセイ #食事  

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