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中津で福澤諭吉歴史散歩(前編)

こんにちは、デジタルメディア事業部のすぎうらと申します。

先日、とあるオンライン講座の撮影(注)で、大分県中津市に出張しました。

中津は言わずと知れた福澤諭吉の故郷。中津藩の下級武士の子として大阪で生まれた福澤は、父・百助の死を機に1歳半で中津に移り住み、幼少期~少年期の約18年間を過ごしました。

場所はちょうど福岡県との県境で、人口約8万人と大分県の都市では3番目の規模があります。海沿いには中津城を中心とした城下町がある一方、内陸部は山に囲まれ、「耶馬渓」という景勝地があることでも知られています(位置関係はマップでご覧くださいませ)。

今回訪れたのは福澤が実際に生活していた城下町周辺になります。ここは明治以降も大規模な開発や空襲による被災を免れており、当時の中津のまちの姿が現在でも引き継がれているといいます。

せっかくの機会なので、今回めぐってきた福澤ゆかりのスポットや見どころをお伝えしていきたいと思います。

中津の玄関口、中津駅

旅のスタートは駅前から。中津へのアクセスとしてJR日豊本線が通っており、中津駅は福岡~大分をつなぐ特急の停車駅にもなっています。北口を出るとすぐ目に入るのが「福澤立像」です。

駅前ロータリーにそびえたつ福澤立像

この立像は1万円札紙幣の肖像に採用されたことを記念して昭和59(1984)年につくられました。紙幣に採用されたことによって街がブームのような形で沸き立っていた時期もあったといい、福澤諭吉の存在の大きさがうかがえます。

話は少し逸れますが、1万円札紙幣は令和6(2024)年には渋沢栄一と交代することになります。それを記念した郵便ポストが駅からほど近くの中津市役所前に設置されていました。福澤と渋沢が握手をしているかわいらしいイラスト付きで、埼玉県深谷市にも同じものがあるのだそう。同時代人で深い交流は少なかったものの、お互い異なる立場から尊敬しあっていた二人。時代を経て、紙幣の肖像という形のリレーをどう思っているのでしょうか。

いよいよ中津の街に繰り出そうというところで、強力な旅のお供であるガイドブックを取り出しましょう。

『福澤諭吉歴史散歩』という本です。福澤諭吉や慶應に関する史跡について、必ず押さえておきたいスポットから知る人ぞ知るマニアックな場所まで紹介されており、中津にある史跡は1・2章に掲載されています。

福澤家の墓石を発見

中津駅から北西に向かい、いよいよ城下町の内部に入っていきます。まずは寺町と呼ばれる、寺社が密集する地域に足を運びます。ここは中津城を防衛するための緩衝地帯の機能も持っていました。この地域にある明蓮寺には福澤家先祖代々の墓があります。

明蓮寺

といっても、福澤家の墓は東京に改葬されているので、現在の福澤家の墓ではありません。こちらは昭和54(1979)年に墓石が折り重なって土に半分埋まった状態で見つかったもので、中津市指定文化財として保存されるにいたりました。

花が添えられている墓石が福澤家先祖の墓

墓地の比較的手前側の場所ですし案内の目印も立っているので見つかりやすいのですが、そうはいっても周りの立派な墓石の中では小さくこじんまりとした印象です。「誰もが知る偉人の家のお墓」とはなかなか思えないのではないでしょうか。

よく見てみると、2つの石の側面には、1つは「福沢家」もう1つは「飯田家」と書かれています。福澤家と、福澤家と縁が深かった飯田家との2つの家が共同で墓を持っていたといいます。江戸時代の厳格な身分制度の中では、下級士族の福澤家は決して高い身分ではなく、墓地の作りにも身分が反映されていたようです。

明蓮寺のそばからのびる寺町通り沿いの寺にも、福澤にゆかりのある人物が大切に供養されている墓をみることができます。大法寺には、福澤の3人の姉のうち長姉、小田部礼の墓があります。礼の夫の小田部武右衛門は福澤から厚い信頼を受けており、福澤が耶馬渓の景観保全のために土地を買い取った際にも名義貸しをするなど協力していました。

大法寺

河童伝説にまつわる一風変わった史跡もあります。円応寺には、寺で修業した河童が、上人に戒名を授けてもらった恩返しに寺を火災から守ったという伝説が残されています。境内にはお墓や石像、河童たちの住みかとして掘られた池、屋根瓦の「水」の印など、河童にまつわる様々なものを見ることができます。川と海に挟まれた水の多いこの地域ならではの伝承ですね。

福澤家の暮らしとは? 福澤旧居・記念館

寺町を抜けて歩いていくと、福澤諭吉旧居と福澤記念館があります。やはりここはハイライトの一つでしょう。

旧居は展示施設として丁寧に整備され、福澤家の暮らしぶりをみることができます。


旧居内部
福澤諭吉が勉強していたという蔵

父・百助の死後、天保7(1836)年に福澤家は母・順、長男・三之助、長女・礼、次女・婉、三女・鐘、そして次男・諭吉という6人家族で中津に引っ越してきました。

実は現存している建物は、2つ目に住んだ家で、それ以前は向かいの敷地にある小さな家に住んでいました。その土台部分を見ることができるのですが、いまどきの都心の小さい一軒家の区画といった大きさで、平屋で母子6人が住んでいた、と考えると狭い印象です。この付近は近くの堀に水がたまるとにおいが漂ったり、福澤一家が大阪にいる間には家が山国川の洪水で流され「血槍屋敷」と呼ばれた、という逸話があったりするような場所で、良い環境とは言えなかったようです。

幼少期時代の家の土台部分

中津に住み始めた福澤一家ですが、大阪の暮らしが長く、言葉や服装などが周囲の子供たちと違ったために、なかなかなじむことができず、きょうだい同士で遊ぶことが多かったようです。

さて中津に帰ってからわたしの覚えていることを申せば、わたしどもの兄弟五人はドウシテも中津人といっしょに混和することができない。そのできないというのは深い由縁も何もないが、いとこがたくさんある。父方のいとこもあれば母方のいとこもある。マア何十人といういとこがある。また近所の子供もいくらもある。あるけれどもその者らとゴチャクチャになることはできぬ。第一ことばがおかしい。わたしの兄弟はみな大阪ことばで、中津の人が「そうじゃちこ」というところを、わたしどもは「そうでおます」なんというようなわけで、お互いにおかしいからまず話が少ない。それからまた母はもと中津生まれであるが、長く大阪にいたから大阪のふうに慣れて、子供の髪の塩梅式、着物の塩梅式、いっさい大阪ふうの着物よりほかにない。有り合いの着物を着せるから自然、中津のふうとは違わなければならぬ。着物が違いことばが違うというほかには何も原因はないが、子供のことだから、なんだか人中に出るのを気恥ずかしいように思って、自然うちにひっこんで兄弟同士遊んでいるというようなふうでした。

『福翁自伝』

そんなきょうだいに対し、母・お順は子供思いで、家族仲の良いあたたかな家庭をつくっていきました。また、おおらかで誰にでも分け隔てなく接した人物で、服はボロボロ、髪はボウボウの女性に、髪についたしらみを取ってやっては、しらみを取らせてくれたお礼にと言って握り飯をふるまった、というエピソードも残っています。

しらみを置いてつぶした時の石(写真右下)が展示されている

また、隣接する福澤記念館の展示では、福澤諭吉に関する歴史や資料を学ぶことができます。『学問のすゝめ』をはじめとする著作や、福澤の周囲にいた人物たちの解説など、豊富な資料を見ることができます。

筆者が訪れた時に旧居で配布されていた「マンホールカード」は、旧居と「学問のすゝめ」がモチーフ。実物のマンホールは中津駅前で見ることができる。

福澤旧居の前は広い駐車スペースになっていて、コロナ禍の前は観光バスもよく停まっていたのだとか。駐車場に隣接して「福沢茶屋」があり、お土産の購入や食事が可能です。名物は「諭吉コルリ」というカレー。福澤が「curry」を「コルリ」として紹介したことにちなみ商品化され、おかわり自由で800円と大変リーズナブルです。ちなみに、このカレーはある調味料が入っているのが特徴なのですが、答えは後半へ続く。。

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参考までに、当記事で紹介するスポットとルートをマップにしました。
前編で紹介したところは青いピンでした。後編では中津城、小幡篤次郎にまつわるスポットなどご紹介していきます(黄色いピンです)。

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注)

現在制作中のオンライン講座「日本の文明化――福澤諭吉の格闘(仮題)」は福澤諭吉の思想、行動を見つめながら、近代日本の文明化と現在にも通ずる課題を考えるコースとなっています。講師となる山内慶太先生と都倉武之先生には、今回の中津の歩き方についても熱心に指南していただきました(ちなみに山内先生は『福澤諭吉歴史散歩』の著者の一人でもあります)。

この講座は英国発のソーシャルラーニングプラットフォームFutureLearnを通して、全世界向けに公開されます。FutureLearnはいつでもどこでも世界中の大学や研究機関などの教育をオンラインで学べるサービスです。慶應義塾大学が展開しているコースはすでに10コースあり、詳細についてはこちらで詳しく紹介しています。

慶應義塾大学出版会は制作や広報などでFutureLearnプロジェクトを支援しています。


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