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【試し読み】『絹の襷――富岡製糸場に受け継がれた情熱』

日本で最初の本格的器械製糸工場として知られる富岡製糸場。

明治の富国強兵・殖産興業政策の先陣を切って、1872年の操業から2014年の世界遺産登録、そして今日まで150年あまりの間、誰がどのようにして富岡製糸場存続のたすきをつなぎ、いくたびかの取り壊し案を退けながらこの産業・文化遺産を守ってきたのか。そして、いかにして世界遺産登録の座をかち得たのか?
本書『絹のたすきは、その「語られざる秘話」の核心に迫る、渾身のノンフィクションです。

このnoteでは、「第1章 一人四役」の一部を試し読みとして特別に公開いたします。ぜひご一読ください。

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 上州富岡駅に降り立つ。
 9月も後半とは思えない陽射しに目を細める。富岡製糸場までは歩いて
15分ほどだが、この暑さはけっこうこたえそうだ。
 改札を出ると、思い描いていたものとは異なる穏やかな空気が漂っていた。雲ひとつない青空がことさら広く感じてしまうような情景だった。驚いたことに、富岡製糸場へと向かう通りへと足を向けたのは私ひとりだ。想像していた賑わいはどこにあるのだろうと、その始まりを探すような気持ちで私は目的の建築へと歩き始めた。

 平成26(2014)年6月21日。富岡製糸場は世界に誇れる栄誉を得た。
 世界遺産登録。
 新聞各紙は、群馬県民が、富岡市民が、そしてかつて工場を所有していた企業・片倉工業がひとつになり、そのゴールに向かって走り続けたと報じた。多くの関係者が、県民が、市民が、目指す目的に賛同し、協力して突き進んだ結果、かち得た登録であると。
 記事によれば、当時の群馬県知事が、世界遺産登録を目指すと公表したのは登録獲得の11年前。そして製糸場は、知事による公表のさらに16年前から操業を休止し、閉鎖され続けていた。
 富岡製糸場は広大な敷地に、明治初期以降に建てられた約120もの建造物と工作物が並ぶ。所有していた企業、片倉工業は稼働していない工場のために、固定資産税、管理のための人件費、修繕費など年間約1億円もの支出を続けたと新聞は報じた。
 こうした事実を知るうちに、私の頭にはいくつもの問いが生まれていた。
 工場が稼働を停止した時、そしてその後、世界遺産という目標が見えるまでの16年もの間、富岡市民の様子はどのようなものだったのだろう。
 企業が保有する一工場が閉鎖しようと、多くは無関心だったのだろうか。
 その期間においても、群馬県と富岡市、片倉工業の三者の関係は良好だったのだろうか。
 その時期の片倉工業の経営状況はどうだったのだろう。毎年かさむ莫大な費用負担など気にならないほど、経営的には余裕があったのだろうか。
 知りたいことが次々と浮かぶ中で、私の関心は、世界遺産登録を機に注目を浴びたひとりの人物へと向けられた。
 操業休止から世界遺産という目標が掲げられるまでの16年間、稼働を止めた工場を保存するようにと指示を出し続けた人。
 片倉工業の元社長。栁澤晴夫。
 毎年高額な支出を余儀なくされる工場施設を、柳澤はなぜ再利用せずに保存し続けたのだろう。
その真意をぜひとも知りたいと思ったのだ。
 会ったこともない人の心情を知りたいなど、無謀な望みであることは重々承知している。ましてやそれは、当人でさえ簡潔には言葉にできないような、胸の奥底に沈んでいるものかもしれないのだ。それでもぜひ知りたいと思ったのは、私自身が何年も考え続けている課題に対する答えが、その人の中にあるかもしれないと感じたからだ。
 私は建築家を志していた学生時代から、自分が美しいと思う建築を訪れ、その空間に浸るのを楽しみにしていた。外観を隅々まで観賞し、内部へと歩を進め、部屋から部屋へと歩いては、次々と幕を開ける情景が、人の心を揺さぶるだけの力を持つことを教えられた。ところが何年か経って、揺るぎない力を持つその建築を再訪しようとすると、再開発によってしばらく前に解体されたと知り、愕然とすることが繰り返されるようになった。壊され、撤去されてしまったものの中には、建築界から高く評価され日本建築学会賞を受賞した作品も含まれていた。一軒、また一軒、美しい作品がこの世から消えてしまったと知らされ、何度もがっかりするうちに考えるようになっていた。
 建築が永く存続できるだけの価値とは、果たしてなんなのだろう……。
 そこに聞こえてきたのが富岡製糸場のニュースだった。建築の受賞歴などなにもない。稼働もせず、工場としての用も成していない。にもかかわらず10年が経過し、15年が過ぎてもなお、壊しもせず、維持と保存に努めた、所有する企業の社長がいたというのだ。興味をひかれずにはいられなかった。 
 その人、栁澤晴夫はいったいどのような思いから決意し、何年もの間その志を貫けたのだろう。
 富岡市の何代か前の元市長・広木康二ひろきやすじが新聞の取材に応じて語っていた。栁澤晴夫と面談した際に、「誰にも売りません、貸しません、壊しません」と言い切ったというのだ。
 ほかの新聞も、栁澤社長の指示のもと、片倉工業は「売らない、貸さない、壊さない」の三原則を掲げて維持管理に努めたと書いていた。そのおかげで世界遺産という栄誉を手に入れることができたと各紙は栁澤晴夫の姿勢と功績を褒め称えた。
 なぜそこまでして栁澤は、売らず、貸さず、壊さずにこだわったのだろう……。
 どうにかして知ることができないものだろうかと考えていた、その折のことだ。願ってもない依頼が、大手製薬会社会報誌の編集長から届いた。
 世界遺産に登録された富岡製糸場について、巻頭にて写真付きの大特集を組みたい。そこで一般の人にもわかりやすくその魅力が伝わるような文章と写真をお願いしたいというのだ。
 胸にある問いに自分なりの答えを導き出すには、またとない機会だ。
 私は富岡製糸場の現在の所有者である富岡市と、かつての所有者である片倉工業の両方に取材を申し入れた。まずはこれだけの建物群を保存するための作業の内容、つまり16年間の管理と修繕工事の内容について知ることから始めようと考えたのだ。
 だが、すぐに壁にぶつかった。
 栁澤晴夫が相談役を最後に退任したのは、13年も前だった。片倉工業からの回答は、栁澤を知る人も退職もしくは亡くなっているというのだ。栁澤の次の社長も、そのまた次の社長もすでに他界していた。工場が操業停止してからもう30年近くが経過しており、当時の管理と修繕工事について語れる者もいないというのだ。
 私は取材の方針をゆるやかに変換した。当時のことを語れる人を探すのは継続しつつ、今現在、これだけの建物群を保存するために、どのような管理と修繕工事を施しているのか、現状の把握も合わせて進めることにしたのだ。
 何日かして富岡市役所から連絡が入った。明治の創立期に建てられた建物の屋根補修工事が近々あるというのだ。
 私は“栁澤晴夫”の名を頭の隅に置きながら、まずは現地へ向かうことにした――。

 道の左右には、日本国中どこにでも見られるような田舎の街並みが続く。オムライスやラーメンの見本がガラスショーケースにある昔ながらの食堂の先には、平屋や二階建ての古い木造の建物が並ぶ。写真屋。肥料販売店。会計事務所。鍼灸院。古いといっても江戸や明治期の味わい深い建物が軒を連ねる風景ではない。昭和と平成がごちゃまぜになった、これといって特徴のない通りだ。観光地らしい土産物屋は見当たらない。世界遺産登録を果たした貴重な建造物の街といった特別感はどこにも見つけられなかった。ひと言でいえば、普通なのだ。
 3カ月前の新聞とテレビによる連日の報道から、私の目には世界遺産に湧く市民と観光客でごった返す写真と映像が焼き付いていた。そのせいで改札の先には人ごみで賑わう人気の観光地らしい光景が広がるものと思い込んでいた。
 公表された年間の来場者数からしても、一日何千人もの人が訪れている計算になる。もしかしたらそれはすべて自家用車もしくは観光バスでの来場なのかもしれない。
 そんなことを考えつつ歩いていくと、やがて富岡製糸場へとつながる、幅はそれほど広くない通りへとさしかかった。ようやく土産物屋や観光客相手のカフェが並ぶ街並みになる。歩きながら、軒先に掲げられた「上州名物」や「富岡名物」と書かれたノボリや看板が目に入る。その下の文字は「和風絹」のしゅうまいや「シルク」のどらやきだ。ギョッとするほど本物に似た、桑の葉とかいこの「お蚕様」チョコレートもある。富岡は口にするものまで絹の街のようだ。
 やがて道の突き当たりにそびえる建物の前まで来ていた。
 門の先、「入口」と書かれた立札のところで私の足は止まった。
 赤い煉瓦れんがの壁面に、灰色に塗られた太い木の柱と、灰色の大きな板戸が規則正しく並ぶ。
東置繭所ひがしおきまゆしよ」という名前の建物だ。現代のマンションであれば4階建てに相当する高さになる。その外壁が左右に100メートル以上続くのだ。元の用途は貯蔵庫だが、安普請やすぶしんではまったくない。それどころか知的な気品を漂せた建物だった。
 ヨーロッパのどこか片田舎にある、歴史ある工科大学にでも迷い込んだような気がした。貯蔵庫が、私の目には実験棟のように映るのだ。駅前からこの街に漂う“普通感”のせいで、初対面の感動が倍加されたように思えた。
 なんの予備知識もなく、大正時代に著名な建築家によって設計されましたと説明されたら、そうなんですねと納得してしまいそうだ。昭和初期のものですと言われても、そうなのかと思うかもしれない。歴史ある建物ならではの威厳はあるが、古びた感じはしない。どこか新しささえ感じてしまう。
 だが、ちがう。江戸幕府が倒れてからたった5年しか経っていない時代に建てられた工場のための貯蔵庫だ。ちょんまげに法被姿の男たちが、日本髪で袴に襷掛けの少女たちが日々行き交っていたのだ。
 私は立ち尽くしながら、以前に読んだ、16歳の少女が明治に書き残した日記を思い出していた。この富岡製糸場が操業を開始した翌年、明治6(1873)年に工女として働き始めたその少女、和田英わだえいは日記の中で「驚き」という文字を三度も繰り返し記していた。
 富岡に訪れ、まず想像していた情景とは異なる町の様子に、
「城下と申すは名のみにて、村落のようなる有り様には実に驚き」
 巨大な製糸場を目の当たりにして、
「実に夢かと思いますほど驚き」
 そして建物の内部を、
「一目見ました時の驚きはとても筆にも言葉にも尽くされません」というように。
 村落の情景に突如として出現した巨大な工場建物群に明治の人々は、今の私とは比べものにならないほどの驚嘆を覚えたのだ。夢ではないかと思うほどに。
 建物の中央付近にはアーチ型のトンネル状通路があり、半円形の頂部にはひときわ大きい灰色の石が、赤い煉瓦の壁から浮き上がる。キーストーンと呼ばれる、アーチを造る際に最後に設置する楔石くさびいしだ。そこには四つの文字がくっきりと刻まれていた。

 『明治五年』

 百年経とうが二百年経とうが、明治5(1872)年からこの建物群は存在し続けているんですよ――。
 建てた者の主張する声が聞こえてくるようだ。
 富岡製糸場は小学校の教科書で存在は知っていた。だが紹介が写真ではなく錦絵だったことから、現存はしていない昔の建物と私は思い込んでいた。それが実在すると知ったのは、大学の建築学科で学ぶようになってからのことだ。だが卒業以来、これまで訪ねていなかったのは、正直にいえば、この工場建築の設計にそれほど魅力を感じていなかったからだ。
 富岡製糸場は、繭などの貯蔵庫や、製糸の器械が並ぶ繰糸そうし所、蒸気窯や従業員のための宿泊施設などの建物群であって、どれも意匠を凝らしたものではない。貴重なのは明治5(1872)年に竣工したのち、150年近く経ってもほぼ建設当時のままの姿で現存することであって、設計そのものに魅力があるわけではない。私はそう考えていた。
 だがその認識を、この建築を軽く考えていたことを深く反省した。たとえ設計者が無名であっても、とても美しいと思ったからだ。
 やはり建築は自分の目で、身体で、実感してこそ人に語れる。そんな当たり前のことをあらためて教えられながら、私は足を前に進めた。

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著者略歴

稲葉なおと(いなば・なおと)
紀行作家、一級建築士。東京工業大学建築学科卒業後、建築家、建築プロデューサーとして実績を積んだのちに、世界の名建築ホテル旅行記『まだ見ぬホテルへ』で紀行作家としてデビュー。マリオット・インターナショナル・ゴールデンサークル・アワード(ワシントンDC)受賞。インド旅行記『遠い宮殿』でJTB 紀行文学大賞奨励賞受賞。その後もノンフィクション、小説、児童小説、写真集と活躍の場を広げ、国内外の名建築の知られざる物語や魅力を掘り起こす。ノンフィクション『夢のホテルのつくりかた』『匠たちの名旅館』、小説『ホシノカケラ』『0マイル』、児童小説『サクラの川とミライの道』(埼玉県推薦図書)、『ドクター・サンタの住宅研究所』、写真集『津山 美しい建築の街』など著書多数。永年に及ぶ建築文化の発展と啓発に関する貢献により、日本建築学会文化賞受賞。

目次

プロローグ  古武士
1 一人四役
2 熱烈な気迫
3 至誠、神の如し
4 シルク王の執念
5 苦渋の決断
6 生き残りをかけて
7 すべて昔のままに
8 誇りを貫く
9 採択の木槌
エピローグ  片倉に縁がある者です
関連年表

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