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困難の源泉としての同一性(横路 佳幸)

哲学において最も基本的で重要な概念「同一性」を解明する『同一性と個体――種別概念に基づく統一理論に向けて』を刊行しました。刊行にあたり、著者・横路 佳幸氏に「同一性」について解説した記事を寄稿していただきました。

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単純だけど複雑な「同一性」

 同一性は、ちょっと変わった概念です。

 イコール記号「=」によって表現されるそれは、至極単純なことしか述べていません——「どんなものもそれ自身と同一であり、それ以外のものとは決して同一ではない」ということです。たとえば、あなたはあなた自身と同一ですが、明け方に輝く金星と同一ではないし、このnoteを書いている私とも決して同一ではありません。あなたはあなた自身とだけ同一で、私は私自身とだけ同一なのです。

 くわえて、自身と同一であることは、単なる偶然というわけではなく、いわば必然です。現にこの世界に存在するあなたは、「必ず」あなた自身と同一であるはずです。あなたがこのnote記事を読まなかった可能性は十分に想像可能ですが、あなたがあなたと同一ではなかった可能性など想像しようがありません。理由は簡単で、やや自己啓発めいた言い方になりますが、あなたは決してあなた以外ではありえないからです。試しに、あなたからあなた自身と同一でない瞬間を切り取ろうとしてみましょう。笑っているとき、ラーメンを食べているとき、子どもをあやしているとき、寝ているとき。あなたからどの瞬間を切り取ってもそこにいるのは例外なくあなたと同一の人物、すなわちあなた自身です。同一性を失う瞬間がもしあるとすれば、それはあなたがこの世から存在しなくなる瞬間だけでしょう。あなたから同一性を引き剥がすことは、あなたがこの世にある限りおそらく神にもなしえない行為です。

 そういうわけで、同一性は改めて強調するまでもないほどに単純です。それが述べるのは「どんなものも、必ずそれ自身とのみ同一である」に尽きています。だとすると、同一性には変わったところなど何もないではないか——そう思われるかもしれません。

あなたはいつあなたではなくなるのか?

 しかし実際の事態はもう少し複雑です。というのも、同一性は数々の哲学的困難を生む源泉でもあるからです。ここで次のような仮定の話を考えてみましょう。あなたは不慮の事故により脳全体に重大な損傷を負ってしまいました。そのせいで思考や記憶、意識といった能力はすべて失われ、病室にあるあなたの身体は生命維持装置に繋がれています。こうした架空のストーリーは、きっと次のような疑問を抱かせるはずです——この「身体」はあなたと同一なのでしょうか。それともあなたとは同一でない何かなのでしょうか。

 同一でないとすると、あなたはすでにこの世にいないと考えるべきでしょう。存在する限り、あなたはあなた自身すなわち「身体」と同一でなければならないのですから。しかしそうすると、病室を訪れたあなたの家族や友人が涙ながらに握る手は、いったい誰の手だというのでしょうか。「生きていてくれるだけでうれしい」というのは、機械に繋がれたほかならぬあなた自身に対して向けられた言葉ではないでしょうか。他方で、病室にある「身体」があなたと同一だとしても疑問は残ります。あなたはいつ同一性を失う、つまりいつ存在することをやめるのでしょう。生命維持装置が外れる瞬間でしょうか。それとも火葬される瞬間でしょうか。いや、身体が塵芥になってもあなたの魂だけはどこかに残り続け、復活や輪廻転生の日まで同一であり続けるのでしょうか。ここには、誰しもが一度は考えたことがあるという点ではありふれた、けれども一筋縄には解決できそうにない問題があります。

 よく似た問題は、この世のありとあらゆるものに等しく生じます。ティブルスという名の猫は、しっぽを失っても本当にティブルス自身と同一なのでしょうか。現在の鴨川と過去の鴨川は、流れ去っていく水がまったく違っていても本当に同一だと言えるのでしょうか。旧約聖書に登場する巨人ゴリアテを模した銅像は、頭部を失っても、あるいは素材を石に変えても同一のままなのでしょうか。

身近な「同一性」の問題を考えてみる

 ひょっとすると、一連の疑問はあまりにも抽象的で浮世離れしているように聞こえるかもしれません。しかし、同一性の問題はときに重大な含意を伴います。例として、あるスイッチを意図的に押した大統領の行為を考えてみましょう。この行為が無辜の市民を悲惨な死に至らしめたのだとすると、頭をもたげるのはやはり同一性に関する次のような疑問です——特定のスイッチを押す行為は虐殺行為と同一の行為なのでしょうか。もし同一ではなく別々の行為だとすると、その事実は大統領の責任逃れに利用されてしまうかもしれません。「私は虐殺行為などしていない、ただスイッチを押しただけだ」という苦し紛れの弁明がまかり通ってしまうからです。この逃げ道を防ぐ一つの方法は、特定のスイッチを押す行為は虐殺行為にほかならないと論じることですが、これはまさしくそれらを同一の行為と考えるということです。同一性の問いは存外、身近なところに潜んでいるのです。

 他にも、母親の胎内にある胎児の同一性を考えてみるといいかもしれません。現在あなたが身ごもっている胎児は、将来の「わが子」と同一だと言ってよいのでしょうか。同一と考えた場合、その胎児の人工妊娠中絶はほかの誰でもないわが子の同一性を奪い消滅させる行為に等しくなります。そうすると、中絶は人を殺める行為とどのように異なるというのでしょうか。反対に、胎児とわが子の同一性を否定したとしても、やはり「わが子はいつ同一性を獲得して誕生するのか」という疑問が生じます。胚が胚外組織から仕切られる時期でしょうか。あるいは、心臓血管系や脳ができ始めるもっと後の時期でしょうか。はたまた、新生児として胎内から出た瞬間でしょうか。同一性をめぐるこうした疑問はいまや、胸が張り裂けそうなほどに痛切な問題と深く関わっています。つまり、「中絶はいつからわが子自身に対する加害行為、つまりわが子の殺害となるのか(またはならないのか)」という問題です。

 こうして同一性は、少し変わった形で、哲学の中心問題として立ち現れることになります。それはたしかに、万物が生まれながらに備え、私たちの思考に深く埋め込まれた単純な概念ですが、それが生み出す哲学的な疑問、そして切実かつ重大な疑問に答えを出すことは決して簡単ではないのです。だとすると、困難の源泉である同一性を次のように再考してみるのは決して無駄ではありません。そもそも同一性とはどういったもので、この世界においてそれは実際のところ、どのようにして/いかなる根拠のもとで成立するものなのでしょうか。こうした根本的な疑問に正面から取り組んだのが、本書『同一性と個体』です。

 本書で私が目指したのは、同一性を根底から問い直すことで、それを一から再構築することです。もう少し踏み込んで言うと、種も仕掛けもないように見える同一性に仕掛けられた「種」を——割と文字通りの意味で——暴いてやろう、というのが本書全体に通底しているスタンスです。そしてこのスタンスは、同一性そのものだけではなく、「北野武はビートたけしと同一である」と述べる際の「同一である」という言語表現や、目の前のリンゴをまさしくそれとして個別化・同定する際の認知的なメカニズムに対しても徹底することにしました。最終的に本書が提示するのは、同一性、同一性表現、認知的個別化(同定)の三つを総合的かつ相補的に解明する理論、つまり副題にもある「統一理論」です。この体系的な理論が私たちの世界・言語・認識に対しどのような描像を描き出すかについて関心がある方は、ぜひ本書を手に取っていただけると幸いです。

後編はこちら↓

【プロフィール】
横路 佳幸(よころ よしゆき)
日本学術振興会特別研究員PD/南山大学社会倫理研究所プロジェクト研究員。
2019年、慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程を単位取得退学。2020年、同大で博士号(哲学)を取得。専門は哲学、倫理学。主要業績に「非認知主義・不定形性・もつれのほどき ――分厚い語の意味論」(『倫理学年報』66集、2017年、日本倫理学会 2017年度和辻賞受賞)、「三位一体論についての同一性の相対主義者になる方法」(『宗教哲学研究』38号、2021年)など。

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#哲学 #同一性 #慶應義塾大学出版会

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