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【訳者特別寄稿】『マイナーな感情』を訳して――アジア系アメリカ人の痛みとアイデンティティを描く(池田年穂)

10月新刊『マイナーな感情』は、白人社会から「模範的なマイノリティ」と目されながらも存在感が薄く、複雑な感情や痛みを抱えつつ生きるアジア系アメリカ人の姿を描くノンフィクションです。

今回は、訳者の池田年穂氏より、本書の原著者キャシー・パーク・ホン氏を日本の読者にご紹介するとともに本書の読みどころを解説した書き下ろしの文章をいただきました。以下に公開いたしますので、ぜひご覧いただければ幸いです。

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カマラ・ハリスは女性初のだけでなく、アジア系アメリカ人初の大統領になれるのか?

 『マイナーな感情』の刊行はセンセーションでした。すぐに慶應義塾大学出版会に翻訳権の取得を勧めました。刊行年は2020年でしたが、あっという間に全米批評家協会賞の受賞、ピューリッツァー賞ファイナリストなどのニュースが飛び込んできました。翌2021年には著者のキャシー・パーク・ホンさんがTIME誌の「世界で最も影響力のある100人」に選ばれました。ホンさんは1976年に韓国系二世としてロサンゼルス市のコリアタウンで生まれています。オーバリン大学でBAを、アイオワ大学のライターズ・ワークショップでMFAを取得し、大学社会ではサラ・ローレンス大学、ラトガース大学を経て、UCバークレーで教授を務めています。詩人としての輝かしい実績を持つホンさんの初めての散文が本書となります。なお、「マイナーな感情」という語はホンさんの造語です。

キャシー・パーク・ホン氏
©Beowulf Sheehan

 タナハシ・コーツ『世界と僕のあいだに』(アフリカ系アメリカ人、2017年)、カーラ・コルネホ・ヴィラヴィセンシオ『わたしは、不法移民』(ヒスパニック、2023年)とアジア系アメリカ人を扱った本書『マイナーな感情』で、訳者によるアメリカのレイシズムについてのトリロジーが完成しました。

 訳者あとがきには下のように記しました。

アジア系アメリカ人は1965年改正移民法を分水嶺として2つに分けられます。2020年のセンサスでは、「アジア系のみまたは組み合わせ」の人口グループはほぼ2400万人で侮れない数字です。数的には中国系、インド系、フィリピン系、ベトナム系、韓国系、日系と続きます。韓国系についても、韓国系のみに留めるか「韓国系のみまたは組み合わせ」とするか、アメリカ市民権を有する者に限定するかグリーンカード所有者を含めるか……などなどカテゴライズするのが難しいのですが、韓国在外同胞庁は2023年に韓国系アメリカ人を261万人超としています。カマラ・ハリス氏はインド系ハーフですし、ニッキー・ヘイリー氏は両親ともシーク教徒です。そうなのです。現在では「アジア系アメリカ人」と普通に使います。しかし、実際には「1968年に、UCバークレーの学生たち(ユウジ・イチオカとエマ・ジー)が新しい政治的アイデンティティを前面に出そうとして、「アジア系アメリカ人」(Asian Americans)というタームを考え出した」のです(本書216頁)。このあたりについての言及が多い「7 負い目のある者」は終章にあたりますが、若い頃はあれほど「アイデンティタリアン」と呼ばれるのを恐れていたホンさんが、例を挙げればユリ・コウチヤマのような先達の活動家たちへの敬意を率直に吐露しています。

 「侮れない数字」でありながら「モデルマイノリティ」とか「アリバイマイノリティ」と呼ばれるアジア系アメリカ人は「不可視の」存在です。ホンさん自身が白人のアメリカ人に「アジア人は次の白人になる存在である(Asians are next in line to be white.)」とありがたくも言われるシーンが本書に出てまいります。それに対するホンさんの反応は「まるで私たちが生産ラインに一列に並ぶiPadみたいな言い方だ」でした。

 本書の7つの章はどれも趣が違い、どこから読んでも楽しめます。連作エッセイと言ってもよいでしょう。アジア系アメリカ人はまず第一に〈アイデンティティの問題〉を抱えています。第二に〈レイシズムの問題〉を抱えています。アメリカという白人優位の資本主義社会からアジア系アメリカ人に向けられる蔑視、もっと悪いことには無視、そしてときにあからさまな差別。そうしたなかで、アジア系アメリカ人が日々感じる「マイナーな」感情。

 ホンさんは自身の半生の体験を踏まえつつ、繊細な感受性と怜悧な観察力、膨大な学術的知識を動員してみごとな作品に仕上げています。もともとアフリカ系アメリカ人、ヒスパニックに比べてアジア系アメリカ人についての書籍はたいへん乏しいのですが、まるで突然変異のように韓国系のホンさんが、アジア系アメリカ人についての内省的でありながら社会的な広がりを持つ傑作を発表しました。訳者冥利に尽きる『マイナーな感情』の翻訳でした。

(2024年8月28日に記す)

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著者略歴

キャシー・パーク・ホン(Cathy Park Hong)
1976年ロサンゼルス市のコリアタウンで生まれる。詩人。
オーバリン大学でBA。アイオワ・ライターズ・ワークショップでMFA。サラ・ローレンス大学で教鞭をとった後、ラトガース大学教授を経て、現在UCバークレー教授。Translating Mo'um(2002年)、Dance Dance Revolution(2007年)、Engine Empire: Poems(2012年)の3冊の詩集で、ブッシュハート賞、ウィンダム・キャンベル賞などさまざまな賞を受賞。また、フルブライト・スカラシップ、グッゲンハイム・フェローシップなどいくつものフェローシップを得ている。『ザ・ニュー・リパブリック』誌のポエトリー・エディターも務めた。初めての散文作品である本書『マイナーな感情』で全米批評家協会賞を受賞、ピューリッツァー賞ファイナリスト。ホンはTIME誌が選ぶ2021年の「世界で最も影響力のある100人」に選ばれている。

訳者略歴

池田年穂(いけだ としほ)
1950年横浜市に生まれる。慶應義塾大学名誉教授。専門は移民論、移民文学。日系アメリカ人についての訳書も多い。
ティモシー・スナイダー、タナハシ・コーツ、ピーター・ポマランツェフらのわが国への紹介者として知られる。コーツの『世界と僕のあいだに』(2017年)、カーラ・コルネホ・ヴィラヴィセンシオの『わたしは、不法移民――ヒスパニックのアメリカ』(2023年)と本書で、アメリカのレイシズムを扱ったトリロジーとなる。マーシ・ショア『ウクライナの夜――革命と侵攻の現代史』(2022年)、スナイダー『自由なき世界』、コーツ『僕の大統領は黒人だった――バラク・オバマとアメリカの8年』(共に2020年)など幅広い翻訳を続けている。

目次

1 団結して
2 スタンダップ
3 白人のイノセンスの終焉
4 悪い英語
5 ある教育
6 あるアーティストの肖像
7 負い目のある者
  謝辞
  訳註
  訳者あとがき

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