『契機』 三輪 颯太
こんにちは、107代で副将を務めます短短ブロック3年の三輪颯太です。
この秋学期から昆布(主務の吉川くん)と同じ研究会に所属し、そこで人生初のブログを書いたので、これが人生2回目のブログとなります。
しかし、こちらの方は研究会のブログのように何かテーマに沿ったり授業を振り返ったりではなく、ただひたすら自語りなのでどんな文章になるのか自分でも楽しみです。
拙い文章にはなるでしょうが、最後までお付き合いいただければ幸いです。
1.陸上にハマるキッカケ
僕は中学から陸上を始めましたが、元々足が速いわけではありませんでした。
小学生の時もリレーの選手に選ばれたことはないし、中1の時も体育の50mは7秒台がやっとというレベルでした。
そんな僕が陸上を始めたキッカケは、トヨケンや昆布のように立派なものではなく、インターネット上ではちょっと恥ずかしくて言えないようなものなので、気になる人は個人的に僕に聞いてください。何度か話したことはあるので、何人かは知っているかもしれませんね。
さて、話を戻して中1の時ですが、腰の怪我をキッカケに通った接骨院のリハビリトレーニングのおかげで、市内大会では2番目の実力になりました。僕が陸上の虜になったのは、市内大会の予選のレースです。今でも鮮明に当時のことを思い出せますが、初めてぶっちぎりで1位を獲って、走り終わった後に他校の選手に「はっや〜〜!」と言われたのが、気持ちよくて仕方がありませんでした。
「ダントツでゴールするのはこんなにも気持ちがいいのか」
「足が速いとこんなにも気持ちがいいのか」
といった快感に溺れ、その瞬間、自分は陸上にハマったことを自覚しました。
ハイキューで言うツッキーのアレです。
ツッキーのアレ:https://www.youtube.com/watch?v=ycfEo598B5c
その日から僕は、明確にオリンピックや全国の舞台で走りたいというものではなく、ただ誰よりも速く在りたいと、そう思いました。
2.全国二冠のキッカケ
全国高校二冠
三輪颯太を語る上で欠かせないのが全国高校二冠についてです。
高校入学時の僕は、まさか自分が全国大会で二冠をするとは思ってもいませんでした。中学では全中にも出場できず、中3の最後の最後に大阪室内60mという全国の舞台を経験しましたが、結果は全体でも下から数えて5番に入る程で「高校では全国大会でラウンドを進めるくらいになれたらいいな」くらいにしか思っていませんでした。
しかし、2人の先輩の存在がキッカケとなったのです。1人は、1つ上のS先輩で、100mでインターハイ入賞もした実力者で、もう1人はマネブロでも触れた2つ上のA先輩で、引退時に「部活をする上で部員1人1人がブロック長の気持ちでいればブロック長はもっとブロック長しなければならず、ブロック長1人1人が部長の気持ちでいれば部長はもっと部長しなければならない」という、組織の1人1人の力こそが組織を成長させていくという言葉を残してくれた人です。
当時、S先輩には「誰も勝てない」「さすが先輩」みたいな流れで、僕含め誰もS先輩と競おうともせず、練習で負けても悔しがることもしませんでした。しかし、A先輩からの言葉を受けて、「S先輩のレベルで気持ちから勝負しないと、もう一生勝てないんだ!」と思い、それからはS先輩の練習に積極的についていくようにしました。
その結果、S先輩が高2で打ち立てた大会新記録の10”59を、1年後の同じ大会で僕が10”58を出して塗り替える程に成長しました。
やはりこの時も「全国に行くために!」というような動機ではなく、ただ「S先輩に勝ちたい!」という気持ちで走っていたら、いつの間にか全国でも入賞が狙えるレベルになっていました。
これによって僕は、大きな目標ではなく身近な目標をひたすら追いかけ続けるという自分なりの哲学を持ち始めました。
高3時、コロナ禍で「インターハイがなくなるかもしれない」「国体もなくなるかもしれない」というように、主要大会がなくなってしまい、目標を見失った人が多かったのではないだろうか。しかし、僕のこの哲学ではそこを目標にはしておらず、ただ目の前の小さな課題に向き合って、少しでも速く、誰よりも速く在りたいという欲望のために、コロナ禍でも気持ちを全く切らすことなく練習し続けました。
その気持ちこそが、全国高校二冠という結果をもたらしたのだと自分では思っています。
3.スランプから抜け出すキッカケ
大1のスランプ。そもそもスランプとは?
ここまで順風満帆かのように陸上人生を振り返っていますが、安心してください。しっかり挫折もしています。
今でこそ100mを10”26で走り、全カレも4位だった僕ですが、大1の時はシーズンベストが追い風1.6で10”62、全カレも10”90で予選落ちしています。これは高3冬〜大1春にかけてまともに練習をしなかったことが原因だと思われます。先に述べたあの哲学を有しているのになぜ?と思うかもしれません。もちろんあの哲学を忘れていたわけではありません。おそらく全国優勝というのがダメだったのでしょう。日本の高校というフレームの中ではありますが、誰よりも速いという称号を得てしまったため、自分の中で欲望が満たされてしまったのです。そこからの走りは最悪で、今までの走りを再現しようとしても、体の使い方を思い出せずにうまくいかず、今までやってきたことのほとんどが消え去ってしまっていました。
ここで諦めてしまうのは簡単ですが、どうやら僕は諦めが悪い人間のようでした。変わったキッカケのようなものも実はあって、それはsyudouさんの「たりねぇ」という曲を聞いた時でした。
syudouさんは有名な曲で言えば「うっせぇわ」を作った人です。強い言葉で心に訴えかけるような歌詞が大好きで僕はよく聞いているのですが、曲中に何度も出てくる「上に上がるだけ」という言葉を聞いて、高校からのプライドも技術も経験もすべてなくして、ただ上を、上だけを目指す姿勢を思い出したのです。
また、この時ある意味、自分は今までの自分を壊せていることに気づいたのです。失うものが何もない今の状態は、言うなれば得るものしかない伸び代の化身であると気づいたのです。そこからはただ愚直に、新しい知識や技術に飢え、ひたすら吸収することの繰り返しでした。その過程には、過去捨てたはずの技術や経験と結びつくこともありました。過去の栄光は、縋っていては取り戻せないが、新しく歩み出すことで帰ってくることもあるのだと知りました。
僕がスランプだと思っていた時期は、これまでの自分を壊して成長するために必要な時期だったのかもしれません。そう思うと、スランプは悪いことではないのかもしれません。競走部の中にも、PBを長い時間更新できていない人もいるのではないでしょうか。そんな時こそ、新しい知識や技術を獲得するチャンスだと思って向き合えば、状況は好転するのではないでしょうか。少なくとも僕は、今までのやりかたがダメだったから諦めるというのは勿体ないと思います。
4.いろいろなキッカケ
ここまで、キッカケという言葉を多く使ってつらつらと自分のことを語ってきました。
「陸上にハマるキッカケ」
「全国二冠のキッカケ」
「スランプから抜け出すキッカケ」
などなど…
キッカケがあるということは、少なくともそれを得る前と後では自分の中で何かが変わっているはずです。
ここでまた1つ、僕の好きなアニメである、ハイキューの名シーンを紹介します。
動画:https://www.youtube.com/watch?v=D7v1D9bDAMk
これは、絶対的なエースをコンセプトとして戦う白鳥沢高校VS斬新な攻撃のコンビネーションをコンセプトとして戦う烏野高校の決着シーンで、常に発展と変革を求め続けた烏野高校が勝利しました。
最後のセリフの「未来に発展も変革も無いと信じる理由はないのである」というセリフがあります。まさにその通りだと思います。発展するためには変化する必要があり、変化するためにはキッカケを得る必要があります。キッカケを得るためには、いろんなことに注意を向ける必要があります。なぜなら、キッカケとはいつどこで得られるかわからないからです。成功体験かもしれないし、先輩の話かもしれないし、好きな曲かもしれない…それなのに、未来に発展や変革が無いと思っていたら、このようにそこら中に潜んでいる変革のキッカケを見落としてしまいます。
これからの1年、僕は副将として、みんなにいろんなキッカケを与えられる人間であり続けます。それこそ、いつかの廣木さんが変わったキッカケのように。そしてもちろん僕も変化を恐れず成長します。お互いにキッカケを与え合って、変化しながらすゝんでいく、そんな1年にしていきましょう。
1年間、どうぞよろしくお願いします。
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