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『賭け』 吉川 昂希

こんにちは、107代目主務を務めます、短短ブロック3年の吉川昂希です。
いつも研究室ではブログを書いているのですが、競走部でこれだけブログを書くのは初めてなので緊張しています。

先日マネージャーブログにも書きましたが、今回の幹部ブログでは少し自分のパーソナルな部分もさらけ出せればなと思います。



幼少期

あまりご存知ではない方もいらっしゃるかもしれませんが、実は出身は大阪です。
両親が大阪出身で、1歳ごろまでは大阪にいました。

家ではバリバリ関西弁を喋りますし、関西の友達と一緒にいるとつい出てしまいます。
ただ、生まれて20年以上は横浜なので、横浜のルーツもかなり強いです。
時々お前の住んでいるところは、横浜ではないと馬鹿にしてくる人がいますが、そんなことはありません。ちゃんと横浜です。

兄弟は4つ上に姉が1人います。わりと仲はいいはず(知らんけど)

陸上の原点

小学校低学年くらいから自我が芽生え始め、典型的な元気ハツラツな子といった感じでした。当時から走ることは好きでした。低学年の時に初めて運動会のリレーの選手に選ばれたのを覚えています。
選ばれた時は嬉しかったのですが、自分にとってすごく苦い思い出になります。

アンカーを務めた自分は、1位?でバトンをもらいました。
直線は問題なかったのですが、カーブを曲がるのが苦手で大きく膨らんで走ってしまいます。
すると内側から女の子がすーっと見えてきて、自分を抜き去っていきました。
そのまま自分は2番でゴール。

お昼前の最終競技で、昼飯を食いながら大号泣をしたのを覚えてます。
未だに思い出すと悔しいですね。
でも何となくこれが自分の原点になって、走ることに熱中し始めた気がします。

中高時代

中高一貫の湘南学園という学校に進学します。(湘南高校と間違われますが、違います。)
まあ一言で言うと、のびのびとしている学校です。
陸上部も大して強い学校ではなかったですが、中学時代から高校の先輩達と一緒に走る中で、メキメキと成長していきます。
全く何も考えず、とにかくもっと上のステージで戦いたいという欲求だけで、ひたすら走っていました。

人生のターニングポイントになった試合は、確実に中学3年生の時の県通信だったと思います。
100mも200mでも初めて県大会に出場して、200mはワンチャン全国と思ってました。
200mの予選。
標準記録は22.75。
インレーンの子(岡村です)とほぼ同着でゴールし、22.74でタイマーが止まっていました。
何となく嫌な予感がしました。
自分の結果は2着22.76。
マジで萎えました。
決勝も切り替えることができず、惨敗。

高校はあんまり結果を出すことができず、正直満足のいく高校生活ではなかったですね。
このまま引退しようかなと思っていました。

ただ、やっぱりこの0.01秒が自分の中で引っ掛かりました。
全国大会で走りたかったという思いもはちろんありましたが、「なんか弱くないか、自分」ということが一番自分の中で引っ掛かりました。

勝負強い人間になりたい。

じゃあ勝てる環境に行かないといけない。

よし慶應競走部に入部しよう。

受験のモチベはこれでした。
このモチベが強すぎて、併願は全て落ちましたが、何とか合格
(日吉の学部ぽいと言われますが、総合政策です。)

競走部の存在がなければ、おそらく慶應には入れなかったなと思います。
本当に勉強が苦手なので・・・笑

主務として

要するに、強くなりたい、勝ちたいという欲求が自分の原動力なわけです。
それなら選手を続ければいいではないか??そう言いたくなるでしょう。
これに対する答えは、「自らの勝利以上に、チームの勝利を味わいたいから」です。

単純に考えても、チームが勝てば、部員150人もいるわけですから、勝利の価値も150倍になると思っています。
さらに、全員が本気で勝利したいと願い、それに向けて努力をすれば、その勝利の価値は150倍では止まらないでしょう。
主務系を続ける中で、その魅力に気が付いてしまったのです。

チームを勝利に導く過程の中でも、自分は人としても強くなるだろうと思いました。
ここのチームでしか経験できないことを、この1年間かけて絞り尽くそうと思っています。

競走部に入り色々な人からたくさんのことを学び、年々思いが強くなっていますが、これはまた別の機会にお話ししたいと思います。

ざーっと自分の書いたことを振り返る中で、今のところ自分の人生は、負けの方が印象強いようです。
今年の1年間は、たくさん勝利の若き血をみんなとたくさん歌いたいです。
そして、1年間みんなと一緒にチームを作れることが本当に楽しみです。

これから1年間よろしくお願いします。


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