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自分を疑うということ

自分が自己愛性パーソナリティ障害かもしれない、と思ったのは、大学受験に失敗したときだった。

不合格通知を見たとき、落ちてしまったという悲しみや悔しさの前に、ああ、やっぱりな、という納得感のようなものが降りてきた。…というのも、私は受験期、他の受験生に比べて全く勉強をしていなかったのだ。「自分はやればできる」みたいな根拠のない自信がどこかにあって、受からなかったのはそれから来る勉強不足のせいなのだろうなと、わかってしまった。

私とて、全く勉強していなかったわけではない。部活が8月に終わり、それまで1秒も自主的な勉強をしていなかった私は、流石にまずいと思って放課後に勉強し始めた。それでも、全国の受験生の足元にも及んでいなかったと思う。しかし運が良かったのか、共通テストではなんと自己ベストを更新、志望校の判定もB判定という、上々の出来だった。…思えばそのせいで、2次試験の勉強が疎かになってしまった節はあると思う。なんにせよ、自分の能力を過信していたことが原因で、私は志望校に落ちた。

その日の夜、死ぬほど泣いた。涙が枕に染みて眠れなかった。受験前に聞いていた安眠用BGMでは寝付けず、結局頭が痛くなるまで泣き通して、SNSで死にたい死にたいと喚き、泣き疲れてやっと眠った。

生憎、合格発表の次の日が誕生日だった。人生で1番最悪な誕生日だった。おめでとう、とLINEが来るのに、精一杯のハイテンションを装って返した。昼間に一度だけ家族の前で大泣きし、それからも時々は涙が出た。情緒不安定で、精神的に辛い時間だった。

私は幼い頃から、自分は特別なのだと思っていた節があると思う。なんでも困らないくらいには人並みにできた。できないことも一種の個性だと思っていた。それが成長していくにつれて少しずつ壊され、受験の失敗によって、拠り所のない自分がみっともなく縋り付いているだけのちっぽけなプライドと化してしまった。──自分がただの器用貧乏だと知ってしまうのは拷問に近かった。誕生日の日の夜、ネットで自己愛性パーソナリティ障害という病名を知った。…私だと思った。

私には、自分よりレベルの低い人を見下すようなところがある。それは能力の面でも、見た目の面でも。心の中でだけ、そっと思う。そういうとき、私はとても性格が悪いなと思う。
私は自己肯定感が高い方だ。成長によって削られてきたとはいえ、その高さは今でも健在である。…そして、自己顕示欲や承認欲求も、人より強いと思う。

布団の中でスマホの画面を見ながら、そんな障害があるのかと他人事のように考えていた。自分がそうだとも考えた。でもそれを矯正することは、不可能に近いと思った。自分は特別ではない、と思うことは、私にとって生きる意味を見失うことと同じだったから。大多数の人の中に埋もれていくことが怖くて、嫌で、耐えられなかった。

きっとこんな風に文を綴っているのも、一種の自己顕示欲の表れなのだと思う。文を書くのは好きだ。通りすがりの人、もしよかったらスキをつけてください。私が喜びます。

このアカウントは、このまま自己顕示欲を満たすだけのアカウントになるのだろうか。それはちょっと寂しいなと思う。けれど同時に、それ以外に書くことがないのだろうとも思う。たぶんこれからもこんな感じの文章が並ぶと思います。よろしくお願いします。



私を疑うということ。
それは拷問みたいな、私を否定する行為。
けれど同時に、私を前に進ませる荒療治。

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