人間五十年

昔から人間五十年という言葉が好きだった。

こどもだった当時はもちろんにんげんは五十年くらいの人生だよみたいな意味だと思って好きだった。

高校くらいの頃「じんかんごじゅうねん」という読みで、当時は人間という言葉は人の世というような意味でじんかんと言ったことを知った。

いろいろ省くがこの歌はもうだいたい900年も前のころにつくられた歌で、内容としてはなんか武将が平敦盛という16歳の若い武将をやむなく討ち取ってしまい、自分のおなじくらいの息子が死んだばかりであったことなどからそれに対して世の儚さ、無常さ、意味のなさみたいなのを読んだみたいな感じだ。

ちなみに人間五十年のあとは下天のうちをくらぶれば夢幻のごとくなりとつづく

下天とはなんか天国のしたのとこみたいな意味で、そこでは一日がこっちの五十年だからこの世の出来事なんかすごい儚いよねという感じで、さらにそのあとの句で、一度生まれたらいずれは死んでしまうそれはこの世の定めだけど悲しいなあ、みたいな感じで終わります。

これがまあ1000年近く前に歌われて、それが今なお残っているというのはまあすごいよな。俺の名前も意思も1000年後にはなにも残っていないかも、いやもしくはすごい残っているのかもしれないが。どうして生き物は自分を残したいと思うのか、いや思うから生き物は未だに世界に溢れているのだろうけども。俺はなんで俺なんだろうな。

俺にとって今この時代を生きていることに意味があるのだ!

というキグナス氷河のセリフがすごい好きなんだが(スロットしか知らないので原作で言ってるかどうかもしらん)

この時代はなんなんだろうな、こんなよくわからん箱に指先をカチャカチャして。俺は正直牧歌的な時代を牧歌的に生きたかった、もしくは殺し合いの時代を殺し合って生きたかった。シンプルに生きたい、シンプルに死にたい。今の時代は複雑すぎるなにもかもめんどくさい。

まあ生を受けそして死ぬということはそれでも救いなんだろう。なんにも意味がないということにも意味がある、それで救われることもある。なんにも価値がないという価値もある。知らんけど、なんにも知らないという知もあるしな、知らんけど。

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