太平記を読まないか? Vol.6~巻1-⑥「俊基資朝朝臣の事」~

はじめに

 こんにちは。今日は「帝」=後醍醐天皇が計画した倒幕計画に大いに協力したいわゆる「忠臣」について読んでいこう。

『太平記』巻1「俊基資朝としもとすけとも朝臣の事」

[原文①]

 これ程の重事ちょうじを思し召し立たれけれども、事多聞たぶんに及ばば、漏れ聞こゆる事もこそあれと思し召されける間、深慮智化しんりょちか老臣ろうしん近侍きんじの人にも、仰せ合はせらるる事もなし。ただ日野ひの中納言ちゅうなごん資朝すけとも蔵人くろうど右小弁うしょうべん俊基としもと四条しじょう中納言ちゅうなごん隆資たかすけ尹大納言いんのだいなごん師賢もろかた平宰相へいさいしょう成輔なりすけばかりに、ひそかに仰せ合はせられて、さりぬべき兵を召されけるに、錦織にしごり判官代ほうがんだい足助次郎あすけのじろう重成しげなり南都北嶺なんとほくれい衆徒しゅと少々、勅定ちょくじょうに応じてけり。

[現代語訳①]

 これ程重大な事(※関東調伏)をお考えになり始めなさった帝だが、この事を多くの人の耳に入れてしまえば、もしかすると(関東=鎌倉幕府へ)情報が漏れ伝わってしまう恐れがあるとお考えになったので、思慮深く知恵のある老臣や(帝の)側近の人にも相談されなかった。ただ日野中納言資朝、日野蔵人右小弁俊基、四条中納言隆資、尹大納言師賢、平宰相成輔だけにこっそり情報をお伝えになられて、(幕府打倒に)適当な兵力を呼び寄せなったところ、錦織の判官代や、足助次郎重成、そして興福寺・延暦寺の僧侶らがいくらか、帝からの勅命に応じた。

[原文②]

 かの俊基としもとは、累葉るいよう儒業じゅぎょうを継いで、才学優長さいがくゆうちょうなりしかば、顕職けんしょくに召し仕はれて、官蘭台らんだいに至り、職職事しきじを司れり。しかる間、出仕しゅっししげくして、籌策ちゅうさくひまなかりければ、いかにもしてしばら籠居ろうきょし、謀反の計略をめぐらさんと思はれけるところに、山門さんもん横川よかわ衆徒しゅと奏状そうじょうを捧げて禁庭きんていに訴ふる事あり。俊基、かの奏状を読進とくしんしけるが、読み誤りたるていにて、楞厳院りょうごんいん慢厳院まんごんいんとぞ読みたりける。座中ざちゅう諸卿しょきょう、これを聞いて「相の字をば、へんについてもつくりについても、もくとこそ読むべかりけれ」と、おのおの目を合はせてぞ笑はれける。俊基、大きに恥ぢたる気色けしきにて、おもてを赤めて退出す。
 それより、恥辱ちじょくに逢うて籠居ろうきょすと披露ひろうして、半年ばかり出仕しゅっしとどめ、山伏やまぶしの形に身をへて、大和やまと河内かわちに行きて、城になるべき所々しょしょを見置き、東国とうごく西国さいごくくだつて、国の風俗、人の分限ぶんげんをぞ伺ひ見られける。

[現代語訳②]

 この日野俊基は、日野家が代々極めている儒学を継ぎ、学才に秀でていたので、地位の高い官職―官は弁官へと至り、職務は蔵人を担った。この間、出仕する事が多かったために(幕府打倒のための)はかりごとを巡らす暇がなかったので、どうにかして暫く家に籠り、謀反の計画を練ろうと思っていた所に、比叡山の山門横川の僧侶らが奏状(※1)を差し出して宮中まで訴えに来た。俊基はその奏状を読み進めていた所、誤って「楞厳院」を「慢厳院」と読み間違えてしまった。同じ会議に出席していた他の公卿らはこれを聞いて、「「楞」の字を「慢」と読めるのならば、「相」の字は偏を読んでもつくりをよんでも「もく」と読めてしまいますなあ」(※2)と、それぞれ目を合わせて笑いながら言い合った。俊基は大変に恥をかいた気持ち、またその様子で、顔を真っ赤にしてその座を後にした。
 この後、俊基は公には「恥辱を受けたので籠居します」と言って半年ばかり出仕を止めた。しかし実際には、その間山伏の姿に身を変えて、大和国や河内国に足を運んで、城を築城するのにふさわしい場所を視察し、また東国・西国問わず所々に下って、各国の財力や軍事力の程度を調査していたのである。

[解説]

※1:王(当時の日本では帝=天皇)へ「奏上」する文書の事。
※2:「楞」の字には「万」が含まれている。本来読まれるべき読み方(「楞」は「りょう」と読む)ではなく、偏やつくりに従って読むのならば、「相」
の字は「あい」ではなく、どちらに従っても「もく」と読めちゃうよね、という貴族の嘲りである。
 さて、今回登場する日野氏の二人は、『太平記』第一部(概ね鎌倉幕府倒幕まで)の序盤にとっては欠かせない人材である。
 日野俊基は、原文でも言及されているが、蔵人頭として出仕している。なお、俊基を蔵人頭に任じたのは後醍醐天皇である。また、俊基の父である日野種範は大学頭だいがくのかみを務めていた。大学頭とは、中央省庁の官吏を育成する「大学寮」のトップである。トップを務めるくらいであるから、父種範も相当に「才学優長」である事は想像に難くないだろう。
 日野資朝は、父が権大納言ごんのだいなごんの日野俊光で、位は正二位であったから相当に出世した父を持っている。資朝自身も従三位じゅさんみに叙せられている―つまり公卿の一人である。

※公卿:太政大臣・摂政・関白以下、参議+三位以上の上級肝心の総称。太政大臣・摂政・関白などが「公」、大納言・中納言・参議、加えて官位が三位以上の者を「卿」と呼ぶ事から、その総称とされる。(『国史大辞典』)
官位についてだが、一番上を「正一位」として、時代によっても異なるが「少初位」などを最も下の官位とした。「正」「従」とは、同じ官位の中で存在する優劣で、従三位より正三位の方が位が上である。
正一位
従一位
正二位
従二位…と言った具合に続いていく。四位以下には、更に「上」「下」の優劣もあり、「正四位上」は「正四位下」よりも優れている…と言ったように更に複雑になる。

 太平記ではこの二人の活躍、そして最期が描かれるが、いずれそれは触れる事になるであろう。今後も読み進めていく中で、二人には是非注目していただきたい。
 さて、今回はここまでとしよう。次回はまた新たな節に入るが、恐らく『太平記』の中では比較的有名なシーンであると思われるので、楽しみにしてもらいたい。
 では。


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