太平記を読まないか? Vol.7~巻1-⑦「土岐十郎と多治見四郎と謀反の事、 付 無礼講の事」~

[はじめに]

 こんにちは。随分と時間が空き申し訳ない限りである。筆者は9月の初めに、この『太平記』より以前に書かれた軍記物語『平家物語』ゆかりの地である壇之浦や、元寇防塁の跡、そして近世の史跡巡りで浜松へと足を運んでいた。下関、浜松それぞれで2泊3日のゼミ合宿である。読者諸君には、一つの時代のみを専門的に学ぶ姿勢だけでなく、近接する他の時代にも目を向ける積極的な姿勢を持っていただきたいと思う。元寇防塁については、いずれNoteで別に記事を作成しようと思っているので、楽しみに待っていて欲しい。さて、では今回も読んでいこう。

『太平記』巻1「土岐十郎ときのじゅうろう多治見四郎たじみのしろうと謀反の事、つけたり無礼講の事」

[原文①]

 ここに、美濃国みののくにの住人に、土岐とき伯耆十郎頼時ほうきのじゅうろうよりとき多治見四郎たじみのしろう次郎国長じろうくにながと云ふ者あり。ともに清和せいわ源氏げんじ後胤こういんとして、武勇の聞こえありしかば、資朝すけとも、様々の縁を尋ねてむつび近づけれけり。朋友ほうゆうの交はり、すでに浅からざりけれども、これ程の一大事を左右そうなく知らせん事、いかがあるべからんと思はれければ、なほもよくよくその心を伺ひ見んために、無礼講と云ふ事を始められける。その人数にんじゅには、尹大納言いんのだいなごん師賢もろかた四条しじょう中納言ちゅうなごん隆資たかすけ洞院とういん左衛門督実世さえもんのかみさねよ蔵人くろうど右小弁うしょうべん俊基としもと伊達三位だてのさんみ游雅ゆうが聖護院庁法眼しょうごいんちょうのほうげん玄基げんき足助次郎あすけのじろう重成しげなり、土岐伯耆十郎頼時、同じき左近さこん蔵人くろうど頼員よりかず、多治見四郎国長なり。

[現代語訳①]

 さて、美濃国に住む武士の中に、土岐伯耆十郎頼時という者と、多治見四郎次郎国長という者がいた。二人とも清和源氏の子孫であり、また武勇に優れているという評判があったので、(日野)資朝は様々なつてを頼って二人に近づき親しくなった。友人としての交流は既に深いものとなっていたが、これ程の一大事(帝の倒幕計画)を誰彼問わず知らせてしまうと、(情報が漏れてしまうなど)どうなるか分からないと資朝は思ったので、やはりもっと彼らの心の内を伺い知るために、「無礼講」と称した宴会を始めた。その顔触れは、尹大納言師賢、四条中納言隆資、洞院左衛門督実世、(日野)蔵人右小弁俊基、伊達三位游雅、聖護院庁法眼玄基、足助次郎重成、土岐伯耆十郎頼時、頼時の親族の左近蔵人頼員、多治見四郎国長らであった。

[原文②]

 その交会遊飲ゆういんてい見分耳目けんぶんじぼくを驚かせり。献盃けんぱいの次第、上下じょうげを云はず、男は、烏帽子えぼしを脱いでもとどりを放ち、法師は、衣をちゃくせずして白衣びゃくえなり。年十七、八なる女の、みめかたちいつくしく、はだえことに清らかなるを二十余人に、すずしひとえばかりを着せて、しゃくを取らせたれば、雪のはだえ透き通つて、太液たいえき芙蓉ふよう新たに水を出でたるに異ならず。山海さんかいちんを尽くし、旨酒ししゅ泉の如くにたたへて、遊びたわぶれ舞ひ歌ふ。その間には、ただ東夷とういを亡ぼすべき企てのほかは、他事たじなし。その事となく常に会合せば、人の思ひとがむる事もこそあれとて、事を文談ぶんだんに寄せんがために、そのころ才学無双さいがくぶそうの聞こえありける玄恵僧都げんえそうずと云ふ文者ぶんじゃしょうじて、昌黎しょうれい文集ぶんしゅうの談義をぞ行はせける。

[現代語訳②]

 その宴会の様子は、見る者聞く人を驚かせるものだった。献盃の順番は(身分の)上下に従うものではなかったし、男は烏帽子を脱いで髪を晒し、僧侶は上衣を着ずに下着の白衣であった。たいへんに美人で透明感のある肌の年が十七、八ごろの女子達二十人余りに裏の無い薄い肌着のみを着せて酒を注がせると、その間彼女らの雪のような白い肌が透き通って、まるでかの長安の太液池の蓮から新たに水が出ているようであった。海・山を問わず珍味を揃え、美味しい酒が泉から湧き出るように溢れて、皆で遊び、舞を舞って踊った。しかしその間、実際には幕府を滅ぼすための計画について話すばかりであった。ただ、そうでなくても毎晩のように会合をおこなっていては誰かに疑われる事もあるかもしれないとして、会合の目的を文学・文章の講義に寄せるために、当時学問において人並み以上の能力を持っていると評判の玄恵僧都という学者(であり僧侶でもある)に要請して、「昌黎文集」の講義を行わせた。

[解説]

 さて、この節では、前節で登場した日野資朝が積極的に協力者を探し求め、土岐十郎頼時、多治見四郎国長という武勇の評判名高い二人の武士を見付け、でも大っぴらに「倒幕どうする?」と話し合えないから"無礼講"と称して宴会を行い、その最中ずっと倒幕計画を話し合っていた、というものである。
 私個人の感覚としては、酒の席でそういう危ない事を盛んに話し合った後、酔っぱらって帰り、家で誰かに情報を漏らすリスクが心配だな…という懸念があるが、ともかくこのようにして倒幕計画は話し合われていったのである。だが、流石に(恐らく現代でもそうだが)毎晩宴会をしていては怪しまれる(というか心配されるだろう)事を心配して、「昌黎文集」を講読する会に様変わりさせたというのである。なお、この昌黎文集の講読については次節で詳述する事となるが、簡単に言えば「韓愈」という文学者の書いた詩文集である。
 さて、今回はここまでとしよう。本節は『太平記』の中でも比較的有名な節であるが、次節との関わりも深いため、読者諸君には、この記事の読了後、間を置かずに次節も読んでいただくと、より理解が深まるであろうと考える。
 それでは、また。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?