舞台後に読む 戯曲『夏の砂の上』
この本を読むきっかけは、2022.10.3から開演している田中圭主演の舞台『夏の砂の上』を観ることになったからだ。
まずはまっさらな状態で行き、観劇後、この原作である戯曲を読んだ。
そのせいもあるのだろう。
全てのセリフが生きていた。
場面場面が目に浮かんだ。
戯曲だから、ト書き以外は全てセリフでできているというのもあるだろうが。
それにしても、戯曲というのは面白い。
小説のように情景や背景などの説明部分がなく、ただただ会話劇とト書きで形成されている。
だからこそ、セリフ自体に呼吸を感じるし場面を空想することもできる。
今回は舞台を先に観てしまっているから特に、だが。
それに、この戯曲は本当に治さんのセリフが少ない。そして誰しものセリフに「……」という部分が多い。
ここから、あの舞台に持って行ける役者、演出家という仕事は本当にすごいと改めて感じた。
逆に言えば、演出家、役者によって色々な味付けができるということでもある。
例えば手をバンッバンッと叩いて骨を砕くシーン。戯曲にはその擬音しかなかった。
それを舞台ではちゃぶ台に対し憎しみでもあるかのようにひたすら叩く。
このシーンも、後に指を失う伏線だったのかな、と、舞台を観た時に感じていた。
この戯曲、どう料理するかで大分変わってくるぞ、と思うとゾクゾクする。
私は今回の布陣でよかったと心から思う。
そしてこれからどう変わっていくのかも期待しかない。
私はお笑いが好きだったから、間がいかに大事かを語っている芸人さんも見てきた。正にこの舞台は間が大事だ。
こんなにも戯曲の中に間があるのだから。
ところで、作者の松田正隆氏、である。
松田氏曰く、小説はどうしても書けなかった、と、あとがきで語っている。
そこで戯曲というものに手を付けた、と。
どちらも創造するものであり、脚本のような戯曲の方が作りやすいというのも面白い。
なにしろ私は大学時代とある本の2ページ分の脚本を書くという課題で惨憺たるものだったから。
そんな松田氏の言葉に印象深い部分があった。
会話が線。
線が作る場面。
新鮮な響きを持つ言葉だ。
それを意識してまた観劇しよう。
明日の舞台は終演後にポストトーク(舞台後にある30分程度のお話)がある。そこに松田氏も参加されるので、貴重なお話を逃さないようにノートを持参する予定だ。
戯曲を後から読むことで初めて気付いたこともあった。
何しろ初日はセリフが少ないという舞台をどう表現するかという点に絞って観ていたから、双眼鏡で役者 田中圭の表情ばかりを凝視していた。
彼が表現するもの、したいものを逃さないように双眼鏡を覗き、その顔を見つめた。
だから、他の演者のセリフの一言一句まで把握できていなかった。
というのをこの戯曲を読んだことで気付かされた。
なるほど、ここがここへの伏線だったのではないか、という思いも抱けた。
実際は分からないが。
例えば交通事故で亡くなる持田は酔って治さんの家でうたた寝をしてしまう。
そこでの描写はこうだ。
その後本当に永遠に眠ることになってしまう持田。このセリフがその後来る死へのいざないのように思えてくる。
解説者はこの部分に関し伏線という言葉は使ってなかったが、私は伏線に感じた。
倒産した造船所から慣れないタクシー運転手となって、慣れない勤務形態で、疲れきった持田の、悲しすぎる死は、この時の思いを回収したように思う。
舞台では優子のセリフに死地への旅路を感じてはいたが、治さんの妹、阿佐子のセリフにしても、完全に死地への旅路を意味していたことには気づかなかった。
この時こんなに切実に言っていたのか。
阿佐子は勢いのあるキャラだ。
渡辺えり子さんのようなパワフルさをも感じていたから、舞台ではサラッと流してしまったのかもしれない。
だから余計にこの部分は響いた。
おそらく、先に読んでいたら舞台で初回から治さん達の姿を、セリフを、想いを、感じ取れたかもしれない。
逆に私のように、舞台をまっさらな状態から戯曲を詠むと、戯曲の中でそれぞれのキャラクターが動き出す。
確実にそこには文字ではない世界が広がっていた。
戯曲の楽しさを知った。
次の観劇は11日。『圭の日』でもある。
当日は2週連続で田中圭祭りのような『金ロー』もある。ポストトークもある。
戯曲を読了後の私はそこに、舞台の中に何を感じるだろう。
蛇足だが、個人的におパンツコーナーが増えている事にも期待している。
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