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『役を生きる』

これは私の推しである田中圭くんがよく使う言葉。
圭くんが推しになるまで、こういう言い方は聞いたことがなかった。というか、私はアーティストの推しはいても、俳優さんの、それも沼になるまでの推しがいなかった。
(好きな俳優さんはもちろんいる。)
だから普通に役者さんは『お芝居をする』人、としか認識していなかった。

そんな中、圭くんは言う。
「涙がでなかったらそれはそれで仕方ない」と。

『役を生きる』とはつまりはそういうことなんだ、と思った。
その人を生きているのだから。
そこに嘘はないのだから。
生きているその時その時に感じた想いが本当のその人なのだから。

『お芝居』というと、それは役者がその人を演じているように聞こえる。
対して、『役を生きる』には、役者本人の部分が削ぎ落とされてその人の人生を生きるような響きがある。
微妙な差かもしれないが、大きな違いに私には思える。

あるワイドショーのインタビューで圭くんはこう言っていた。
「基本、田中圭はどうでもよくて」

ハッとした。

結局『役を生きる』ということは、当然ながら田中圭ではなくなること。
だから数多の役を生きてきた彼にとって『田中圭』でいることはどうでもよくて、役を生きていることだけが重要なのだ。

例えば最近円盤化が決まった『女子高生に殺されたい』。通称「女子ころ」。
ここで生きた東山春人という人物は圭くんとは全く別なのは当然だし、ここには役者田中圭は微塵も存在しない。

Huluで配信された一風変わった「死神さん」もそう。
だから未公開NGでは一瞬にして圭くんが出てくる。
タナカーにはその違いがすぐわかるのも特徴のひとつ。

ところで、つい先日。
綾野剛くんがある役者に対して言っていた。
「彼の役の生き方は」
と。

これはこの事務所の考え方なのだろうか?
ずっと気になってた割に圭くんの沼に落ちるまでが長かったから、残念ながらそこまで私は知らない。

ただ、『役を生きる』という言葉がこの事務所みんなの共通認識だとしたら、真の役者、ここにあり。
という感じがしてならない。

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